障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

介護とは何か❓011 *いのちの意味(2018.03.11)

*いのちの意味

 

数年前のこと。

神奈川で50人近い障害者施設での殺傷事件があった。

 

犯人は、

「障害者」には「生産性が無い」から、

「生きている意味が無い」。

また、

親たちが「子供の未来」を案じていたからやった、

と言った。

 

言葉も話せず、無抵抗な人を、

無差別に刺した。

何があろうと、

「人は殺してはいけない‼️」

それにこれは、

自分にとって「他人事では無い‼️」と想っている。

 

自分が話せても、

防御は100%無理だと想うからなのです。

「話せない」「動けない」「税金で養っている」そんな人間に、

意味があるのか⁉️と言われた時、

人間が生きる意味は、

誰にでもあって、

命の「価値」は誰にでも在る。

言葉が話してくれなくとも、

「笑顔」で会話したり、

なにか絶対その人が必要な意味は在る。

 

ただ、

「親」が「子ども」の将来を案じているのは、

内も変わらないと想う。

僕自身が、

「人生放棄」を考えることも在る。

 

僕たち「障害者」は、

命が早く終わってしまう人が少なくは無い。

 

僕はこの事件で、

亡くなった人、傷ついた人が居るなかで、

「何か問いかけられてる」気がしてならない。

 

命に代えて、

「社会への問いかけ」をしてくれたのでは…

 

今の、

「社会においての弱者の生き辛さ」、

自分らしさを活かして生きるということ、

何より、

「生きることの権利」を奪ってしまった。

 

こんな理不尽なことは、

1回であっても「有ってはいけない‼️」

「人間に、必要で無い人は居ない‼️」と想う。

 

それであっても、

「命は毎日生きて居るのが当然」でも無い。

 

だからこそ、

「今」を生きて居ることに「価値」が有る。

 

僕は、

「生きて居る意味」に、

一生かかっても「答え」が出せないかもしれない。

 

でも、

「生きた意味」を遺して生きたいとは想う。

今こうして生きて居ることに感謝して…

 

考え続けること、

取り組み続けて、

「答えを求める気持ち」を持って、

生きて生く‼️

意思ある他力本願 ∞人財の増減と発掘の方策(ボッチャプレイクラブを通して)∞(2018.02.07)

∞人財の増減と発掘の方策(ボッチャプレイクラブを通して)∞

 

ボッチャクラブにどう人を呼ぶのか?

人に伝えていくのか?

これにはいくつかの原因があるので書いてみたいところです。

 

まず、

ボッチャというものを支援学校にいる時に経験をします。

でも、

卒業時にかなりの確率で離れます。

おそらくかなりの確率で、

やりたくてもやる機会、場所を失くしてしまうことになります。

 

ボッチャを今やっている人たちを競技人口というなら、

200人いたとして、

経験したことある、またはやりたい人は10倍20倍いると、

私は思っています。

 

でも、どこでやっているか?

どうしたらいいのか?

思っているうちに競技熱も醒めてしまうと考えます。

 

実際、

県には日本代表はいます。

でも、

その大会(県大会)に出る人は、

50人弱でマイナースポーツの段階です。

 

それには、

競技人口の発掘より前に、

経験者が戻って来る、来れる方策を、

1丁目に置くべきと考えています。

 

こういった人たちの拡充ができれば、

ボッチャの宣伝をした時の、

言葉の大きさに繋がっていくものと想っています。

 

もう一つ、

ボッチャを「みんなのスポーツ」にすることでしょう。

「みんなでできるスポーツ」として伝えること。

そのうえで、

今やっている自分たちが、

どう発信をするのか⁉️

が、鍵であることですが、

私にも決め手がありません。

でも、

1年間(8〜9回)その場所でやり続けることで、

「やっている場所」が在ることを伝えられる一つだと、

想っています。

 

⭕️発信力の強さ

発信力、推進力、「リーダーシップの強さ」は、

人それぞれである。

一人に理解をしてもらえたら、

拡がる力は強くなっていくと感じます。

 

どんな人にでもできることとして、

興味を持ってもらうには、

子供たちに、

こんなスポーツがあると伝えられる機会づくりを、

して生きたいと想います。

極端な発想になれば、

「ボール遊び」で良いんです。

 

それを、

競技としてしていくには、

個人の気持ちと、

周りの理解もあります。

どれだけやりたい気持ちを伝えられて、

それをどう受け取るか❓でしょう。

 

でも、

初めてやりたいと思う時って、

完全明確に伝えられる人ばっかりでは無いと考えます。

それゆえに、

「やりたい気持ち」をどう受け止めてあげられるのかだと、

自分は考えます。

やってみて、

「できた」「楽しい」を感じられることが、

大切なことです。

 

その宣伝には、

「和氣楽会」総会があります。

ボッチャのブースを建てることもありますが、

「ボッチャ」「ローリングバレー」の実演等が、

この総会の柱になっています。

私は、

その両方に関わっているので、

伝える側でしょう。

 

でも、

新規参加者が殆ど居ません。

主催者も、

新規参加者、スタッフの呼びかけしています。

でも、

回を重ねていることは、

凄いと想います。

 

さて話を戻します。

 

⭕️クラブ運営費について

レインボードリームスは、

5人の部員の会費、10万弱で運営しています。

ただ、

クラブ運営、ボール代、交通費等考えると、

1年間20万円を目指したいと想っています。

1人が2万円を出すことは簡単では無い。

だから、

協賛者を募ることも考えます。

そう簡単にはいかないでしょう。

 

でも、

それより大切にしたいもの。

自分たちのクラブであるということ。

それゆえに、

自分たちのお金でやることも重要なことを理解し、

認識をしてもらった上の運営はしたいと想ってます。

 

ここは、

何があっても譲れない‼️

 

誰かが手伝ってくれればできることと、

「助けてもらえば良い」って発想は違う。

 

胸の内

「頑張っているから手伝って欲しい。

協力して欲しいって、いつもみんなに想ってるよ。

日々の生活でもね。

そうした時の達成感は、楽しい。

苦しみや悩みは沢山あるけどね」

 

少し脱線したかもね(笑)

 

僕自身の会費納入を完成できたら、

今年末か夏の段階で、

ボール2号を購入予定をしています。

大会に出た時も、

3セットくらい必要だから、

まだ足らないと思うし、

更新も考えないといけないので、

道具整備環境整備は、

グループとしても必要と考えて居ます。

 

⭕️今の現状

今自分たちが確実にできると言い切れるのは、

1ヶ月1回の練習は、

4年の活動の中で確立できました。

ただ、

大会には毎年エントリーしているけれど、

行きたい人全ての行きやすい環境をつくりたいし、

そうあるべきと考えます。

そのために、

サポーターの拡大を考えます。

ざっくり言うと、

力を貸してくれる人、

活動や気持ちに賛同してくれる人ってことと想います。

 

⭕️参加人数

今自分たち5人とヘルパーさんたちと支援者4人、こどもたち2〜3人、

10〜15名で活動しています。

練習の内容の拡充、

練習、大会のサポートメンバーの勧誘は必要なことです。

拡充することによって、

会費の増収、

個人会費の減額もできるし、

人が増えることで発信力は高まり、

仲間がボッチャをやってるよ、って

ここにあるよ、

できるところ、

ある意味「息抜き」でも良いかもしれない。

 

みんなが「楽しめる場所」が最重要だけど、

この想い大切にしたい。

けれど、

行き違いも多々ある。

だけど「やり続ける」を貫く。

 

ここ、大ポイントと考えます。

 

これ以上増えたら大変と思うよりも、

僕のような立場の人を増やしていけば良いし、

そうしたいことなのです。

 

正直今の現状は、

毎日毎回練習するのが大変で、

「人の言葉、考え」を、

聴いて聴かせてもらう余裕が無いのが現実です。

 

今僕たちは、

施設に入所だったりすれば、

チームは自然に消滅してしまうでしょう。

でもそれは、

チームを作った時に思ったこと。

続けてきたこと、生くことの意味を失くしてしまうことは嫌で怖いこと。

 

地元にチームが在ってできること、

スポーツが有るってことは、

残し続けたいと考えます。

 

⭕️レインボードリームスとは

みんなにはそれぞれの色があり、

合わせるとそれが綺麗であるということを想って、

名付けました。

 

以上が、現状レポートです。

介護とは何か? 010 *心の怒り‼️ (2018.03.26)

*心の怒り‼️

 

僕は週末、

「ボッチャ」、「ローリングバレー」、「友だちとの買い物」など、

いくつかの活動をしている。

こういう活動をしていくのは、

土曜日、日曜日が中心となっている。

 

特にボッチャは、

「レインボードリームス」というチームを地元で立ち上げ、

1ヶ月に1回のペースで仲間とやっている。

 

ただ最近、困ったことがよくある。

これらの活動をしていくうえで、

1ヶ月以上前からヘルパーさんにお願いしておいても、

時間が取れないのです。

 

僕は自分の予定について、

こう、想っている。

 

自分の中で大切な予定は、

「どうしてもやりたいこと」、

または、

人を動かしてしまう中では、

「やらなくてはいけないこと」が増えてきた。

 

もう、

「自分一人の予定では無いこと」も増えてきたのです。

 

そのために、

何ヶ月も前から「先手」「先手」を打って動くのだけれど、

「都合がつかない」と言われる。

「イレギュラー」とか、

「人手が足らない」とか、

言ったりする。

 

でも、

ここで一つ考えて欲しいモノがある‼️

 

事業所として利用者は「必要」で、

「使いたい」から契約する。

 

「契約をする」ということは、

「その利用者の要望はできる」という前提で、

サービス提供者は受けるのは当然である。

受けられない原因、

それは「人手不足」にある。

 

確かにどこの事業所も「人手不足」なのは解っている。

 

でもここで一つ、

声を大にして言いたい事がある‼️

 

その「人手不足」や 「都合がつかない」ことを、

簡単に利用者に言うことに、

問題が有る‼️

 

そんなことは、

何があっても、

「お客様」に言うべきでは無い‼️

 

「介護事業者」または「従事者」としての、

「責任」と「プライド」は何処に有るのだろうか⁉️

 

もし、

人の生活を軽く見ているなら、

それは、

「言語道断」である‼️

 

「責任」と「プライド」と言った「自覚の無さ」と、

「利用者の活動に対する想い」

を、

どう受け止めているのか⁉️

 

このことを、

「1丁目1番地」に掲げられずして、

介護職に就てはならないと想う。

 

昨今、

「1億総活躍社会」と謳われているが、

当然その中に、

「障害者」も入っているはずだし、

「障害者の社会進出」を謳っているのなら、

それぞれの想いを遂げることがらは、

実現に向けてすべきではないだろうか⁉️

 

そういうことの積み重ねが、

「障害者」に対する「認識」と「考え」が深まり、

やがて、

「変化の胎動」が産まれ、

「変化」が起きていくのだと、

僕は強く想っている。

 

そのためにも、

「自分らしく生きて活動できる機会を奪ってはならない」のです‼️

 

「社会的弱者」は、

想うように行動をでき無くて良いわけでは無い。

行動と口動(こうどう)が有るからこそ、

社会は変わって行く。

変えられる、

と想い続けて生く。

 

だからこそ、

「介護事業所」、「介護従事者」に、

「奮起」と「奮闘」をしてもらいたい‼️

 

僕は、

「一人では何も変わらない」と想っていた人間だけれども、

今は違う❗️

 

「一人からでも動けば変わる‼️」と想っている。

 

だからこそ最後に、

この話は、

「大きな怒り」と「憤り」と「悔しさ」の中で描いたことを伝えておくこととする。

 

「介護者」は、

「人の世界や生活」を、

軽く捉えるな‼️❗️

介護とは何か? 009 *書くことよりも話すこと (2018.03.11)

*書くことよりも話すこと

 

僕は、

「書くこと」よりも、

「話すこと」のほうが得意かもしれません。

話すことのほうが「熱」が伝わり易いのです。

 

インターネットで文字になった時、

想っていることがどう伝わるのか?

伝えたいことが伝わるのか?

 

書くのもまとまらない、

話をすれば山手線の様にクルッと一周してまとまらない。

 

それでも、

「書いたり」「話したり」を続けることに変わりない。

もしこのことを止めてしまったなら、

僕は僕では無くなってしまうという「怖さ」がある。

 

生活していても、

自分の気持ちが伝わらずに、

「心の生きづらさ」を感じている。

 

僕はいちおう、

皆さんが聴き取れるであろう「言葉」は話せたりする。

人には、

「おまえ一人で三人分だ」と言われる。

確かにそうだと思うが、

昔は五人分話せたと想っている。

そう考えてみると、

自分も静かになったと思うけれど、

でも僕の周りは、良くも悪くも「認めない」と思う。

 

どうせ三人分なら、

「握り寿司」なら食べる自信がある‼️(笑)

 

正直35を過ぎてから、

「話しづらさ」を感じる。

これは「身体的」な意味で、

「話したいこと」が頭に有ったとしても、

「言葉にできなかったりする。」

後は、

「緊張」が入ればやっぱり話せない。

そういう時は、

「ゆっくり話したり」、

友だちに言葉で「あ行」から言葉で文字盤を頼んだりする。

 

それでも話したい。

 

また別の観点においては、

自分の普段話している言葉で話さないと「ちゃんと話せ」とか、

「甘え」に取られることもある。

 

確かに、

疲れてる時や、甘えられる人なら、

そういう時もある。

人間は「伸び代」も有るし、

「ゆったりする。させてあげる」ことも必要なのだとシミジミ想う。

 

話せるから「言える」、

「言ってくるのがあたりまえ」、

という決まりきった「定説」がある。

 

僕だって「話しづらい」 「頼みづらい」「言いづらい」もある。

でも三人分話せる自分には、

「そういう部分」がある。

 

人間いろんなところに合わせたり、ものを言うことも有る様に、

僕にだっていろいろな場面というか、

状況も有るのに、

僕は一部しか見てもらえない。

 

そんな時は、

「一人の人として」悲しくなる。

 

描くことは好きなだけで巧くも無い。

 

でも、

好きであることは、

なにをやるにおいても「必要」なことの一つかもしれない。

 

僕は「 嫌い」と想いながら、

モノができるほど器用な人では無い。

 

前に書いた、

何を以って「障害」とか「健常」とか言った時に、

いろんな「視点」「論点」「考え方」があるから、

「答えは一つでは無い」。

それを描くと言うのは難しい。

それでも「描く」のは、

小さいころから「好き」でいられたことが、

大きな理由なのです。

 

それに今は、

描きたいことが有り、湧いて来るのです。

 

何か一つ「文」や「イメージ」が湧いて、

一つのタイトルを付けて描き上げる。

 

僕はいつも、

「話しながら」「描きながら」考える。

 

どんなものができるか❓

どんな話になるのか❓

は、

ペンの力に任せたい。

「意志のある他力本願」だろう。

 

僕は自分の気持ちが続く限り、

「描く」も「話す」も止めない‼️

介護とは何か? 008 *何を以ってして…(2018.03.11)

*何を以ってして…

 

僕はたくさんの想いを描く中で、

ふと

想うことがある。

 

何を以って「障害」、

何を以って「健常」なのか❓

 

これは総て、

「比べるもの」がある以上、

考えとして浮かんだり、

思いが浮んで来るのだと想う。

 

僕は障害を持って産まれたのは「現実」です。

でもね、

障害を「受け入れて」、

自分も周りも「同じ考え」や、

その人の言葉、想うこと、「身体」を認識できたり、

その仲間がいたなら、

その人は「障害」は無いのではないんではないのかな❗️

なんて想うのです。

 

僕は「自由」にできているところがあっても、

「障害者」だと想う。

それはこれまで書いてきたとおり、

日常生活の「食事 」「着替え」「お風呂」「排泄」等ができ無いことの他に、

行動ができなくて、口動(こうどう)しかできないので、

言葉だけの説得力が持たせられ無い、持たせきれ無いことが口惜しいし、

自分にとって多くの関わりある人に、

少しでも同じ認識になれたならと想うし、

感じるうちは、

障害を抱えると想う。

 

身体の障害も、

「これがあたりまえ」と思えばある意味「前向き」で良いのかもしれない。

僕は、

「前向き」もあれば、

「後向き」もあるからです。

 

やっぱり、

生活の上での「食事」「着替え」「お風呂」「排泄」は、

自分でしたいと想うけれど、

いろんな「感情」「考え」「想い」「認識」の中で、

「無いものねだり」になって、

「考えのどうどう巡り」になってしまうのです。

この「どうどう巡り」が、

「本当の障害」になってしまうと自分が毎日感じていること…

 

自分が「障害」ではなく、

「不便」や「こんなものだよ」って「アッケラカン」として捉えていたなら、

「心が感じることも違ってきて」、

自分では気づかないスピードで動いているけど、

「いつのまにか違う景色」が見えていることもあるんだろうな。

 

やっぱり僕が障害者であることは一生変わらない。

だからこそ、

「自分の大切なところ」を認識や、

「知ろうとしてくれる人」、

「興味」を持ってくれる人を、

一人でも多く居てくれたらと想うし、

その興味は、

「僕の身体」であっても、「考え」であっても構わない。

 

もしかしたら、

自分が気づかない「着眼点」。

これを読んでくれている人の中に生まれているかもしれません。

 

今僕が描いていることは、

「正論」「理想論」だよって想うかもしれません。

 

僕は今、それでもかまわないと想っています。

 

なぜなら、

これが今の僕の「ありのまま」であるからです。

 

「現実」は変えられない。

でも「現状」は変えられると想い続け、

言い続け、

26年の春を迎えるこのごろです。

 

僕は今描きながら、

自分の心をさらけ出し、向き合い、

読んでくれるみなさんに「関心の種」を蒔けたなら、

あるいは、

渡せたらと想います。

 

もし、

いろいろな想いが魚なら、

「美味しい海鮮丼」でもできるかな…と想っています。

優先事柄 続編 ※職員の在るべき姿とは※ (2018.05.05)

※職員の在るべき姿とは

 

みなさん おはようございます。

 

先日こんな事があった。

 

デイサービスの午後の活動で、

植木市に出かけた。

利用者10名以上、職員4人という、

ある意味大集団だった。

 

僕は電動車椅子に乗っている。

運転もできる。

指示されることも伝わる。

 

でも最近よく、

「みんなの動くペース」について行けないのだ。

それは、

眠気という一つの症状が襲って来る。

しかも予告無く、突然に…

 

他にもいくつかあるけれど、

今は「眠気」に絞って話を続ける。

 

その眠気でみんなのペースについて行けなかったのです。

もっと自分の気持ちを出すなら、

自分一人「置いて行かれた」のです。

 

他の人は自分たちのことしか見ていなかったのだ。

ちゃんと全員ついて来ているかどうか観るのが、

「職員の仕事」なのだ。

それすらもしなかった‼️

 

しばらくみんなが落ち着いた時に、

迎えに来た。

 

僕の気持ちは、

放って置かれたと想った。

たとえそれが「数分」のことであっても、

寂しかった…

 

みんなは見えていたけどついて行けず、追いつくこともできなかった。

 

行動のスタートから、

心が別行動になってしまった。

「取り残された気持ち」で心が完全に覆われてしまった…

哀しくて、

堪んなかった。

 

僕は活動から帰る車の中で言った。

「みんなに置いて行かれた」と苦しい自分の気持ちを言葉にした。

 

そうしたら、

「置いていって無いよ。」「ちゃんと見たじゃん。」

 

ある程度自分で任せているから、任せている=できるを意味する。

 

確かにそれは、

僕も理解し認識している。

もしかしたら、

僕の様に理解できる人がこんな風に想うのも、言うのも、

「甘え」や「甘え過ぎ」と捉えられることが多いのだろう。

 

でも大切なのは、

「そういう状況」と「その気持ち」にさせてしまった、

という事なのだ。

 

これは「事実」である。

 

僕は常に「三配り」を考えて居る。

「気配り」「目配り」「心配り」なのです。

 

デイサービスに居る間の僕は、

「家族から預かっている存在だ」ということを解っているのだろうか❓

 

自分からこんな事を言うのも「嫌だ」と想う。

「貴方は何様なの?」と想う人も居るのは当然かもしれない。

それは言われなくても、普段の生活の中でも想う人も居るかもしれないし、

自分だって「そう想う事柄」が無いわけでもない。

 

でもみなさん、デイサービスで居る間は、

職員にも「責任」があるはずだし、

ある意味、

「御客様」なのです。

だからこそ、

三配り、「目配り」「気配り」「心配り」が必要なのだ。

 

前にも書いた様に、「何様」でも良い。

 

でも、ここで大切なのは、

そういう事が「有った」「起きた」「興した」事が問題なのです。

 

僕はさっきから言葉にしている「気配り」「目配り」「心配り」は、

自分も心掛けている。

 

職員さんたちは、

勤務時間は「仕事」をしていて、

これで生計を立てているのです。

 

「プロ」や「仕事の自覚」は、

何に於いても「主眼」に置かねばいけない。

 

ちなみに、

「プロ」という言葉や「エキスパート」などという言葉は、

「自分から」言うべきものでは無い。

人に「判断する」「判断されること」で意味が出て来る言葉なのだ‼️

 

じゃぁ

自分が思って良いこと、

言って良い言葉は、何か❓

それは、

「自覚」だと、

「もう一度」書き記す‼️

 

これはなにも、

人にだけ求めている、言っているわけでは無い。

 

自分にも問い掛けをして求められるモノだと「自覚」している。

 

福祉全般、

または、

自分の心に問いかけて観ることが、

みんなに「必要」だと想う。

 

そのことで、

「皆の安心」と「笑顔の基本」であると、

信じている。

優先事柄 ※相模原事件※(2018.05.02)

※相模原事件※

2016年7月26日、悲しい事件が起きた。

 

場所は、神奈川県相模原市

 

津久井やまゆり園。

 

ここで、

元職員が19人の尊い命を奪い、

26,7人を傷つける事件が現実に起きた。

しかも、

話も抵抗もでき無い人から殺していったと言う供述で語られた。

話をでき無い人と書いたが、

これに関しては後述したいと思う。

 

犯人言わく、

障害を持つ子どもの将来を悲観したから殺った…

 

もちろん、

何があっても「人を殺す」ことはよく無い。

これは、

「最重要の良識」だと想う。

 

ただ、

親が子どもの将来を心配するのは、

子どもが「健常者」であっても「障害者」であっても変わらない。

 

でも、

自分の力で生きて生き易いのは、

間違いなく、

「健常者」だろうと想う。

 

残念な言い方、

または、

冷たい言い方になるかもしれないけれど、

子ども、妻、夫、親、兄弟の介護、介助をしているなかで、

「毎日の疲れ」、将来への不安を感じ、抱いてしまうなかで、

命を奪ってしまうということは少なくない。

1年1回もこのニュースを聞かないことは無い。

 

それほど、

「生を支える」ことは大変なのだ。

 

もしかしたら、

僕そのものが、

親、兄弟に手をかけられることもなくは無い。

もちろん、

そんなことをしたら、100%犯罪者になる。

 

でもそれが冷静であるなら、

そんなことはしないだろう。

 

でも、

それが悲観的な考えかたになってしまった時、

たとえ残忍であったにしても、

「心が追い込まれてしまった」ならば、

 

手をかけても不思議では無いと想う。

これは決して、

殺っていいなどという容認では無い。

 

実際、

僕の親も、

「あなたが居たから、この家に居た」と

よく言う。

 

最初は、

「恩着せがましい」と思ったけれど、

いろんなものを「耐えて忍び」ながら、

親や周りの力があった中で、

「生かされて居た」のかもしれない。

 

わたしも死んで居たのかもしれない。

 

事実、

わたしも自ら命を絶とうと思ったことは、

かなり有る。

でも今を生きて居る。

 

施設に居ても、

親たちが言葉にしてしまうのは、

子どもを愛するが故の「苦しみ」、

もあるのだ。

 

子どもである僕も、

親亡き後のことは、

毎日と言っていいくらいに不安として付き纏うのです。

 

こういう事件は有ってはならないことなのだけれど、

いつ起きても、

どこで有っても、

誰が起こしても、

オカシク無いのだと想う。

けっしてこれは、

対岸の火事」では無いと想う。

だからこそ、

恐怖やショックが有った。

みんな、

布団やベッドで寝ていれば、

無抵抗で殺られてしまうと思う。

 

さて、この話の冒頭にふれた、

「話をでき無いということ」について書き記そうと思います。

 

人の表現には、

「あいうえお」と言えるから話せるだけでは無い。

たとえば、

「文字盤」で話す。

「パソコンなど機械的な物」だったり、

聞きてが言葉を言って頷いてもらったり、

または、

泣く、笑うなどで話したり、

身体の一部、 「目」「手」「舌」などで合図をしたり、

または、

「笑顔」や「顔」で表現もしたりする。

「手話」や「口の読み取り」もある。

 

今僕が思いつく限りでもこれだけある。

これのほかにも有るはずです。

これらの方法は、

僕が学校や日々の生活、テレビなどで観たことがあるのです。

 

だからこそ、

「話せ無い」と決めつけた犯人の「浅はか」な言動に、

「強い怒り」を感じてしまう。

 

犯人には、

100回死刑になっても赦すことは、

僕にはでき無い。

人の未来を奪ったのだから。

 

ただ一つの救いは、

利用者さんの家族がやまゆり園を必要としている

ということだろう。

 

この動きに関しては、

神奈川県知事の黒岩祐治氏を筆頭に、

家族の思いを受けとめて動いていることは、

ニュースなどの報道のとおりです。

 

なお、

大切な家族を奪われ、傷つけられたみなさまの気持ちを想うと、

書き綴っている今でも、

涙がでる。

 

〈家族を亡くされたみなさまへ〉

亡くなられた家族、または親族、知り合いのみなさまと出会えたことが、

なによりの幸せだったと想います。

 

〈傷を負われたみなさまへ〉

みなさんの受けた「心の傷」は消えることは無いでしょう。

でも、

生きていかれるなかで、

少しは癒されて生くこともあることと想います。

これについては、

家族のみなさまも同様ではないでしょうか❗️

また、

そうであることを心から願って居ます。

 

〈やまゆり園のスタッフのかたがたへ〉

みなさまがたの、

日々の生活を支えてくださる「努力」や「気持ち」は、

他の施設を利用している私にも解ります。

みなさまがたのいつもの支えは、

利用者さんに届いていると強く想います。

これからも、

利用者さんと供に楽しいやまゆり園を続けていっていただければと想います。

 

〈福祉を志す、または、関わってくれているみなさまへ〉

人間には、

いつ、どのような事が起きてしまっても、

不思議ではありません。

でも、

「福祉は国民全員のもの」です。

これからこの気持ちを抱きながら、

みなさんと供に未来へ進みたいと考えて居ます。

そしてなにより、

建物のセキュリティはもちろんのこと、

私たちの「心のセキュリティ」も考えていかなければなりません。

福祉の世界においては、

未だ未だ必要とされ、多くの人の力が必要です。

そして悲しいことではありますが、

人間の死をもって社会に問題提起をされていることは事実です。

遺された私たちは、

「何をすべきか」❓

「どうあるべきか」❓

答えを見つけられなくとも、

考えて生かなければならないと想います。

 

また、

このブログを通してみなさんに話して生きます。

そして、

供に考えて生きたいと想います。

 

この世に「失って良い命」、

「居なくて良い人」は、

居ないのです。

 

みんなを認め合うことが、

「共生社会」の原点であると想います。

 

そして、

今後もまた、

この様な事が起きない方法を考えなければいけないでしょう‼️

 

そして最後に、

〈亡くなられたみなさんへ〉

みなさんは亡くなることが有ってはなりませんでした。

でも、

みなさんの命で考えなければならないコトが見つかりました。

みなさんの命が無駄にならない様に、

考え生きて生かなければと想います。

 

そして、

心より御冥福を申し上げます。

 

みなさんが、

天国では自由に話し、

身体が動いてくれていると想っています。

天国になってしまったかもしれませんが、

「自由な身体」で楽しんでくださいね。

 

(つづく)