介護とは何か?002*あたりまえは無い。(2018.02.25)
*あたりまえは無い
障害者はよく、「やってもらってあたりまえと思うな」と言われてきた。
少なくとも、僕の41年の人生において、よく使われて来た言葉だ。
確かに人には「感謝の気持ち」は必要だけど、
それは「健常者」も一緒なのです。
ところで、僕の心の中にはこんな疑問がある。
「健常者」は自分が「五体満足」で、
生活の「食事」「移動」 「排泄」「着替え」、
生活の総ては簡単にできてしまうことが「あたりまえ」と思っていませんか❓
僕は決して「障害者」になること、「健常者」であることは、
運命だったり、「宿命」があるように思う。
僕は今「障害者」だから、「健常者」に生まれたかったと本心では毎日思う。
健常者というみんなは、「障害者」になりたいと思うだろうか?
おそらくほとんどの人が、なりたく無いだろう。
もっと言えば、ある日突然「障害者」になる、
または、為ってしまったというのが「現実」だと思う。
だからそこで初めて、「あたりまえ」を喪うことになる。
そこで「無い物ねだり」や、
「今までのこと」があたりまえで無いことに気づかされることが多いだろう。
その悔しさは、実は、
「障害者」が「障害者」であることが「あたりまえ」では無いことの証明のように思う。
でも決して、「障害者」=「マイナス」では無い、と
障害者と呼ばれ、思われて来た自分は思う。
それは僕も、生活のことや自分の体が、
「普通に動いて生活をしてみたい。
もちろん、仕事もしたい。」
と思う。
でも、障害者も「人」であることに変わりはない。
だから、
こんな考えを僕は持っている。
「障害者」も、自分で動けなかったにしても、
自分の考えや思いを発信したり、発信して、
「友だち」「仲間」「理解者」ができていくことで、
「自分のアピール」「自分の世界」を、
掴んだり拡げたり、新たなことに気づいたり、また、
それまでとは違う自分の「活躍の場所」は在ると、心から言いたい。
僕にも、自分の理解者がいて、いろんな活動をしている。
こうして「自分の世界」を少しずつではあるけれど、「着実」に活動している、と、
今は心から思う。
「障害者」に生まれたことは不幸では無い。
でも、
「自分の世界」「気持ち」を理解されないことは、
「辛いこと」「悲しいこと」に繋がってしまうのだと、僕は言いたい。
でも僕は、
「障害者S-hiroshi」で良かったと思うことがある。
今までそして今、未来に会う人は、
「障害者S-hiroshi」でなければ、会っていないのです。
このことは、
僕にとっての「大切な考え」の一つなのです。
だれもが、
「あたりまえのことは、何一つ無い。」
だから、
「障害の有無」に左右をされない、
活躍のできる社会を考えてもらいたいのです。
もちろん、
「人其々が考える」いじょう、多様性もあるだろう。
もちろん、
その答えも、人其々で良いのです。
ただ一つ、僕のお願いをするなら、
「みんなの幸せ」を軸に据えた考えや思いを持って欲しいと思います。
私たちの住む日本は、
健常者95%、障害者5%と言われています。
「障害者の世界」「健常者の世界」、二つあるのでは無く、
一つの世界に「共生」、「共に生きていくこと、生きて良いこと」を心に置いて、
仲間たちと、あるいはみなさんに、
これからの日本に産まれて来る人たちに、
「共生できる社会」のために、
S-hiroshiは、
自分の気持ちが在るかぎり、
「ありのまま」の自分を観せて語りかけ、
時に訴えて生きたいと、
今心から思う。