障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

🌟ちょっと、フタ呼吸🌟体と時間:自由が欲しい(2018.03.04)

🌟体と時間:自由が欲しい

 

今日は「自由」を描いてみようと思う。

 

僕が「人を羨ましくなること」は、「思い立ったら出かけられること」だ。

 

例えば、

「健常者」は、「車」「自転車」「電車」「バイク」などで、

その日直ぐに出かけられるわけです。

例えば、

「今日買い物に行こう」とか「映画観よう」って、

一人または友人と出かけることでしょう。

 

僕も「デイサービス」、「スポーツ」、「友達と出かける」ことはできる。

 

ただそれは、

総て「予定を組む」ということで、

「ヘルパーさん」「タクシー」などを用意することになるのです。

そうなると、

僕にとっては「仕事」になってしまうのです。

ただ純粋に、

「遊び」「楽しみ」にはならないのです。

 

僕はこんな時友だちと、

「何処でもドア」が欲しいねって「真面目」や「笑い話」で話したりする。

そうすれば、

皆んなが思うところに思い通りに出かけられるね、って話している。

それこそ、

ドラえもんの生まれた22世紀の未来なら、

有り得るのかもしれない。

 

残念なことに、

僕や友だちは100年以上は生きて居ないことは、

現代においては確定の事実なのである。

よほど、

「長生きの薬」でも開発されれば、

別の話かもしれない。

でもそうなると、

自分の知っている人は生きて居ないのも寂しいかもしれない。

 

人間は、

「無い物ねだり」をする動物なのである。

でも、

この「自由」を、

「無い物ねだり」ですませるには「悔しさ」が湧いてくる。

 

ほかにもやっぱり、

人が羨ましいことはたくさんある。

 

でも、

それを全部言っても、

悔しいことだらけで、

身体ではなく、

心が生きていけなくなってしまうから、

なるべく思わない様にしている。

 

ちなみに、

僕が障害者であっても、

行動が自由に生けるなら、

何処でもドアで、

野球観戦や講演会などもしてみたいので、

全国や世界を飛び回って観たいものです。

 

でも僕が、

障害を持っていることは変わりないから、

誰かと行くことには変わりないけれど。

 

みんなと同じ「自由」が欲しいと思いながら、

15,000日以上を「障害者」として生きて居る。