障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

介護とは何か❓013 hiroshiの福祉の考え方《8供1創》 (2018.03.30)

*hiroshiの福祉の考え方《8供1創》

 

さて、

今日もペンを取ってみようと思います。

 

今回は、

大きなテーマになると想うので、

話が跳んでしまうので、

よろしくお願いします。

 

先ず、

《8供1創》について描きたい。

 

1.共生(ともにいきる)

2.共有(ともにあって)

3.共感(ともにかんじ)

4.共助(ともにたすけ)

5.共動(ともにうごき)

6.共考(ともにかんがえ)

7.共育(ともにそだち)

8.共進(ともにすすむ)

9.創造(つくりあげる)

 

これを、

福祉を

「感じ」

「考え」

「生きて」

「想い」

続けた、

「自分の考え」なのです。

 

この《8供1創》は、

「言葉の口惜しさ」から産まれたのです。

 

日本の国家予算の30%台は、

福祉に使われている。

もちろん、

この予算は、

日本国民全員の為の予算です。

僕はそう理解をしている。

 

ただ、

この予算のことを、

「障害者、高齢者を面倒を見る予算」

言う人が、

僕の周り、結構居たんです。

 

「なんと酷い言い方だろう…」と想う。

 

「健常者の人」だって、

風邪をひけば薬局で薬をもらうでしょう。

「その時にこの予算は使うでしょ❗️」って、

反発を通り越して想ったことを言ったことがある。

 

誰が病院に入院しても、

使われるはずです。

 

「障害者年金」を、

「補装具や車椅子を作るお金に使う」って言い方もした人も居た。

 

この予算は、

「人を面倒見る予算」では無く、

「人が人らしく生きる予算」なのです。

 

僕にこんな風に言った人も、

いつ「障害者」になるかは判らない。

そんな時に、

「自分を有りの侭の身体で生きて生く」時には、

使うことになる。

 

僕は、

人はどんな身体であっても、

「有りの侭で生きる権利」が有る。

これは、

誰がどう言おうとも、思おうとも自由だけど、

「断言」を200%する。

 

その考えを言った上で、

今度は、

「人権」と「心権」に移ろうと想う。

 

人の考えはいろいろが有ると同じ様に、

「いろんな考え」が在っても良いと想う。

ただ、

人は、

人の話を肯定するより否定が強い人も居る。

肯定あるいは認める、ができなくても、

否定はしなくても良いんじゃ無い❓って想ったりする。

ただ、

否定に似て居るかもしれないけれど、

「ついていけない考え」も在る。

 

でも人には、

「言葉の自由」「考えの自由」は在る。

 

基本僕は、

人がしてはいけないこと、

ざっくり言うと、

警察に捕まる様なこと以外は、

認めても良いと想う。

 

人には「人権」がある。

 

「障害者」「健常者」「LGBT」の人たちなど、

もっと分類すれば沢山あると想うけれど、

今は思いつかない。

 

どんな立場に置かれても、

「自分の大切に感じる想い」は、

護ってあげたいし、

護ってもらいたい。

 

もちろん、

僕が受け止める側になっても同じだと、

想って居る。

 

「虐め」「差別」「区別」「虐待」は紙一重で、

相手がこの四つを想ってしまえば、

「成立するもの」だと想う。

逆に言えば、

「成立してしまう」のです。

 

「介護とは何か❓」を描いた時に、

「自分の望む介護」を認識してもらえずに、

「やってもらえない」。

とりわけ、

排泄介助の場面が顕著である。

ある意味、

「仕事を選ばれる状態」を、

「心権侵害」になって、

「心が苦しい」まま生活して生かなければいけなくなる。

 

この状態は、

「総て思うとおりにならないといけない」

というのとは違う。

 

「総て思い通り」=「わがまま」になってしまう。

僕の言いたいことはやってくれない。

認識、理解をしてもらえない。

 

解っていて、

決まりとしてやらないと想って居るかもしれないが、

頼んだ人の気持ちは、

何処に棄てられてしまうのかと想う。

 

その人に頼むということは、

1回、1日、1ヶ月の積み重ねの中で出来ていくものです。

 

僕はよく話すけれど、

自分が話すことは得意だけど、

「頼むこと」は、

「気持ち」も「言葉」も、

「言い辛い心」を持って居る。

 

hiroshiの考えの中で、

二つの信頼感、または、信頼という想いが在る。

 

1.心頼感(心頼る感覚)

2.信頼感(信じて頼る感覚)

3.心頼(心頼る)

4.信頼(信じて頼る)

この四つなのです。

1が生まれなければ2は生まれない。

2が生まれなければ3は生まれるはずも無い。

4には進めるわけも無い。

 

今これを書いていて、

涙が出てくるが、

ペンを走らせることにする。

 

「障害者」であるから、

頼まなければできないのに、

「自分の勇気の出した一言」から逃げる。

逃げて居る感覚は無くても、

自分、または相手に伝わってしまえば、

同じことになってしまうのです。

そうなると、

「言って良いのか?悪いのか?」

そんな心の中で、

言葉は言えなくなる。

 

この状況が生まれる中で、

「言えるんだから…」と言われても、

「それは無理だ❗️」と叫びたい。

というか、

「心が壊れる」「壊れていく感覚」が、

毎日在る。

 

人間はストレスを感じる。

ただこれは、

感じさせなくてよいストレスなのである。

 

しかも、

決まり事を徹底しているわけでも無い。

 

「やってもらえてる人」には、

「やらなければ煩い」からとか、

「文句が出ることが有る」からやる。

少なくとも僕にはそう見えるし、

僕のアンテナはそれを受信してる。

 

だったら、

「全員で全員のことをやろうよ❗️」と

言いたい。

でも、

言えば、

「やっている。」「やっているじゃないか。」と言う。

でもこれは、

本人に伝わらなければ成立しないのです。

 

今僕の中に在る「介護」は、

「都合の良い介護」だと想う。

 

僕がこのテーマを今描くのは、

子供の頃にも「逃げられた」。

虐めにも繋がった、

大人、子どもに関係無く、

その気持ちがあって、

続いていて、

その気持ちが強く出ると堕ち込んで、

気持ちが真っ暗闇を感じ、

「漂流状態」になる。

「人間不信」なところもある。

 

ただ大事なのは、

この状況は「創り出されている」のです。

 

私は障害者である。

このことは、

変わり様も、

替え様も無い。

選び様も無い。

だから苦しい。

 

でも僕は、

「障害者」を辞めない。

辞められないからでは無い。

「障害者」だからこそ、

今僕の周りに居る人達に逢えたからです。

「障害者」であるから、

「描ける気持ち」が在る。

 

これは、

僕が人生を「生き切る」うえでの一生を通した「仕事」だと想う。

 

僕は自分が関わる人、

関わってくる人に対して、

ある意味の「好き」になりたい、

「頼りたい」、「甘えたい」と想って居る。

また、

みんなを大切に想って居る。

 

明日4/1から新年度が始まり、

「新たな出逢い」と「希望」を持って明日を生きようと想う。

 

僕は、

この《8供1創》を考えた時、

「自分らしさ」「みんならしさ」で「生きたい」「行きたい」から、

心の中から「産まれて来た」のです。

僕はこれからも、

《8供1創》の意味を考え、

描くことで訴えて生く。

 

そして、

答えは出ないかもしれないが、

「真の共生社会」を創る一人に成りたい。

 

一人では何もできないこともある。

孤立もある。

一人から始まる、始められることもある。

仲間と共に歩き、

《8供1創》の考えも「新説」として根付かせて生きたい。

みなさんも一緒に考えてもらいたい。

 

とりあえず、今回はペンを置くことにする。

 

桜と辛夷(こぶし)の花が満開で、

春を感じて居る。

 

*代筆者(座敷童)からのお断り

◎hiroshiの執筆するスピードと、

ブログアップのタイミング、時節のズレを前提で、

このブログは進行しております。

hiroshi了承のうえでの進行を御理解くださいませ。

内容こそ御吟味願います。

 

◎また、

今回のテーマの振り返りとして、

「介護とは何か❓001」の再読も御願い致します。

 

よろしく御願い致します。