障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

介護とは何か? 003 *体の動く羨ましさ (2018.02.27)

*体の動く羨ましさ

 

僕は「障害者」であるから、

「健常者」の人の、身体の動く羨ましさがあるかと言えば、

そうでは無い。

 

ここで言う、

「体の動く羨ましさとは・・・・・・」

 身体が動けば、

人に対してやってあげたこと、したことが、

目に見えるからなのです。

 

ところが、

身体が動かないと、

口が動くだけと判断されて、「口で言うなら簡単」とか「楽でよいね」、

という人が多かった。

事実、そんな言葉で嫌な思いをたくさんした。

口が動くと、「デマカセ」でもなんでも言えると思う人はいるだろうと思う。

 

口動く力の「口動力(こうどうりょく)」言葉でも、

身体動く力の「行動力(こうどうりょく)」に負けない説得力が欲しいと願い。

また、

そういうふうに思える、思って認めてもらえる、心の環境づくり。

そのことができたら、

わたしは、「体の動く羨ましさ」は、良い意味で感じないだろうと思う。

 

身体の動く羨ましさは、

自分のことができるとは思うのだけれども・・・

自分の身体が人と同じ様に動いたことが無いから、現実的に想像できないのです。

 

僕は、

身体が動かなくとも、

自分で誰かの力を借りてでも、

「健常者」と同じ様に、

稼いでご飯や好きなモノを買い、生活できたら最高だと思う。

「収入」「仕事」「夢」、

または、

いろんなことに対する思いは少しずつ書いて、

心から言葉を発信したいと思う。

 

僕の書く文章を読んで、

其々の「気持ち」「感性」で、何か大切なものを感じてもらえれば嬉しい。

ただ、何かというものが何なのかは、みなさんの「感性」にお任せしたい。

身体が自由なら何をしたかったのかは、

違う機会に書きたいと思います。

 

身体が自由に動くことは、自分にとっては「無いこと」だからこそ、

いろんな視点で書けるものなので、

ゆっくり書くThemaにしようと思う。

 

ただこれだけは言えるのは、

口動く力の「口動力」でも、身体動く力を持ち合わせている人に、

共感や賛同、理解を得られたり、感じてもらえるなら、

身体動く力に等しい力を得られると、

僕は信じている。

そこから観える始まる世界に心動かされ、

ドキドキわくわくする感覚を、

一人でも多くの、

本当はそういう力のある、心が眠っていたり自信が無かったりする人に、

あなたにもそういう力は必ず在ると、

僕は信じている。

 

何故そう思うのかは、後に書きたい。

介護とは何か?002*あたりまえは無い。(2018.02.25)

*あたりまえは無い

 

障害者はよく、「やってもらってあたりまえと思うな」と言われてきた。

少なくとも、僕の41年の人生において、よく使われて来た言葉だ。

 

確かに人には「感謝の気持ち」は必要だけど、

それは「健常者」も一緒なのです。

 

ところで、僕の心の中にはこんな疑問がある。

「健常者」は自分が「五体満足」で、

生活の「食事」「移動」 「排泄」「着替え」、

生活の総ては簡単にできてしまうことが「あたりまえ」と思っていませんか❓

 

僕は決して「障害者」になること、「健常者」であることは、

運命だったり、「宿命」があるように思う。

 

僕は今「障害者」だから、「健常者」に生まれたかったと本心では毎日思う。

健常者というみんなは、「障害者」になりたいと思うだろうか?

 

おそらくほとんどの人が、なりたく無いだろう。

もっと言えば、ある日突然「障害者」になる、

または、為ってしまったというのが「現実」だと思う。

 

だからそこで初めて、「あたりまえ」を喪うことになる。

 

そこで「無い物ねだり」や、

「今までのこと」があたりまえで無いことに気づかされることが多いだろう。

 その悔しさは、実は、

「障害者」が「障害者」であることが「あたりまえ」では無いことの証明のように思う。

 

でも決して、「障害者」=「マイナス」では無い、と

障害者と呼ばれ、思われて来た自分は思う。

 

それは僕も、生活のことや自分の体が、

「普通に動いて生活をしてみたい。

もちろん、仕事もしたい。」

と思う。

 

でも、障害者も「人」であることに変わりはない。

だから、

こんな考えを僕は持っている。

 

「障害者」も、自分で動けなかったにしても、

自分の考えや思いを発信したり、発信して、

「友だち」「仲間」「理解者」ができていくことで、

「自分のアピール」「自分の世界」を、

掴んだり拡げたり、新たなことに気づいたり、また、

それまでとは違う自分の「活躍の場所」は在ると、心から言いたい。

 

僕にも、自分の理解者がいて、いろんな活動をしている。

 

こうして「自分の世界」を少しずつではあるけれど、「着実」に活動している、と、

今は心から思う。

 

「障害者」に生まれたことは不幸では無い。

でも、

「自分の世界」「気持ち」を理解されないことは、

「辛いこと」「悲しいこと」に繋がってしまうのだと、僕は言いたい。

 

でも僕は、

「障害者S-hiroshi」で良かったと思うことがある。

今までそして今、未来に会う人は、

「障害者S-hiroshi」でなければ、会っていないのです。

 

このことは、

僕にとっての「大切な考え」の一つなのです。

だれもが、

「あたりまえのことは、何一つ無い。」

 

だから、

「障害の有無」に左右をされない、

活躍のできる社会を考えてもらいたいのです。

 

もちろん、

「人其々が考える」いじょう、多様性もあるだろう。

もちろん、

その答えも、人其々で良いのです。

 

ただ一つ、僕のお願いをするなら、

「みんなの幸せ」を軸に据えた考えや思いを持って欲しいと思います。

 

私たちの住む日本は、

健常者95%、障害者5%と言われています。

 

「障害者の世界」「健常者の世界」、二つあるのでは無く、

一つの世界に「共生」、「共に生きていくこと、生きて良いこと」を心に置いて、

仲間たちと、あるいはみなさんに、

これからの日本に産まれて来る人たちに、

「共生できる社会」のために、

S-hiroshiは、

自分の気持ちが在るかぎり、

「ありのまま」の自分を観せて語りかけ、

時に訴えて生きたいと、

今心から思う。

介護とは何か? 001*同性介護の効と罪ー介護の在るべき姿〔私見〕(2018.02.21)

*同性介護の効と罪ー介護の在るべき姿

 

障害者に生まれ、41年が経った。

それと共に「介助」「介護」「福祉」などを

「考え」「感じ」「思い悩み」「格闘」「葛藤」「未来」「希望」などを持ち、28年が経つ。

この年月は、僕が生きる限り続いていくことになる。

 

さて、本題に入ろうと思う。

 

介護とは何か?

「介護」「介助」「福祉」は、みんなのためのものであると定義する。

それはなぜか?

誰もが障害や手助けを必要になった時に、力を借り、利用して良いものと考える。

 

人間が生きる上での行為、大きく4つに分ける。

「食事」「排泄」「着替え」「移動」「お風呂」と5つになったけれど、

この5本は、人間総て障害の有無に関わらず必要とされる。

この5つのうちの一つでも欠けたならば、

人間の体やこころは死んでしまうだろう。

 

今、

声高に「同性介護にあるべき」と言うが、本当にそうだろうか?

 

それを望む者には心地良いものだろう。

ただ介護をする側の人間の「権利」「人格」「心理」等は護られると考える。

 

ただ一つのキマリを守ることに拘ると「生きづらさ」、寂しさを感じる者も多い。

 

そしてなにより、「介護を頼みたい人に頼む権利」を奪ってしまうのです。

人間は、頼みやすい人、頼みにくい人、話しやすい人といることになる。

 

その中で、男は男って決めてしまうことは、選択を失くしてしまう人も出てくる。

両方の人に頼めるから安心できる時に、愉しさを感じることができる部分は多いと感じる。

それを、分けてしまうと言われることで、

「この人はやってくれない」と思うと、心は「傷つくものである」。

 

私は、「同性介護」を否定はしない人だと自分は思っている。

 

ただここで話したいのは、私は体を選べない。

でも、介護職の人たちは「仕事選び」をできるし、していることになると思う。

 

介護に携わる者が、前述した5つの行為に関して逃げるべきではない。

もしそんなふうにやるなら、「この仕事に就くべきではない。」

 

ただ、介助者や介護者に対し、「感謝」をしていないわけではないことは、書き記したい。

 

ただ、わたしが子供の頃から、「介護者が」上、「介護される側が」下、という考えが強いのは悲しいが実質である。

 

「男女同権」はよく聞くけれど、その前に、「人間同権」であることを肝に銘じなければいけないだろう。

 

介護者は「介護のプロ」である。

その知識、経験をフル活用すべきであるが、

最初からそうではない。

もちろん、「命」「体」を預かる以上は、

失敗をしてはならない部分があることは言うまでもない。

ただ人間は、「失敗」「経験」をすることで大きく成長するものである。

 

これはどの仕事に於いても言えることでもある。

 

だから、「失敗をしても良いサポート」「教育」の体制をつくることも必要なことと考える。

 

実質わたしも「失敗をして」経験し、失敗をされて経験をする中で、感じ取って来たモノも多い。

 

「プロは1日にして為らず」

「プロの完成は絶対無い」

 

人間は日々「感じ」「考える」ことで成長するものである。

「考え」「思い」「行動」が無ければ、成長をしないのでは無く、

「人として心が退化」するだろう。

 

ただプロだと思い自覚をするなら、

常に「心の耳」を育てていくべきものと考える。

 

誰も一言目から「プロだから」とか、そうで無いとか言うつもりなく、

そう言ってしまったなら、

育っていくところや心を奪ってしまうだろう。

だからこそ、

「失敗」は必要である。

 

介護って、

「きつい」

「汚い」

「過酷」。

いわゆる3Kと言われ、

おまけに、給料も、全産業と比べても10万〜15万安いとされる。

 

正直、良い仕事では無いと判断される材料は揃ってしまうのである。

「待遇改善」の1丁目は、福祉である。

 

ただこの仕事が3Kだけではないことの発信をする側受ける側が、タッグを組んで言い続けたいと思うし、そうあるべきと考え、そういう考えの発信と浸透に向けて、「心の叫び」を一人からでもスタートすべきである。

 

わたしはその一人になり、仲間を募り、社会に問いかけたい。

そして、

自分の大切なところが、未来に伝わるようにしたいと心から願う。

 

ー介護者と未来の介護者へー

どの仕事もそうだと思うのだが、

介護の扱っているものは「体では無く」、

「人の思い」や「心」を扱い、預かることである。

 

その達成感が、

信頼と心からの笑顔と介護の明るい未来への一助になると、

わたしは、心から言いたい。

 

誰もが笑える「共生社会」を心から願う。 

 

※代筆者からのお断り

この投稿は、先天性脳性麻痺による肢体不自由状態と、

脳躍動状態と身体運動機能との不整合を抱えていることでの言語表記の不具合を、

本人の意思のもと、

合理的配慮で表記変換を施しています。

また、

文章スタイルは、本人のありのまま状態を尊重し、

意思と感情を反映しつつ、若干の加工を施しています。

そして、

投稿掲載タイミングは、

天運に依り運行されていることも、

御理解願います。

(座敷童子)