障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

✳️コメントを受けて✳️ ちょっと、ヒト呼吸のつづき(2018.04.29)

✳️ちょっと、ヒト呼吸のつづきー若者の政治離れ

 

わたしの6本目お話にコメントをいただいたので、

もう少し深めた「私見」を書いていきたいと思います。

 

若者の投票離れは、

「解らない」、

「誰がやっても変わらない」、

という二つの言葉に大きく分かれる。

これは、

最も「的確な指摘」であって、

わたしもそう思うところもある。

 

ここで、

一つの数字を描こうと想う。

 

10代  20%

20代  30%

30代  40%

40代  50%

50代〜70代  60%

 

これは、

各年代の「大まかな」投票率です。

簡単に言うと、

「若者」は低いのである。

30.40代、

いわゆる「現役」や「社会の中心」と言って良い世代でも、

50%台には行かない。

むしろ、

「高度経済成長」を担って来たベテラン世代は、

「投票」という「意見表明」をしているのです。

 

地方の選挙では50%割れ当たり前。

20%、30%台が普通のことになって、

もはや、

「驚き」は無く、

「やっぱりな」と思う。

 

政治が身近なhiroshiでさえ想うのだ。

 

国会に目を移せば、

「審議拒否」。

強行採決」の横行。

「批判合戦」。

まるで、

「子どもの喧嘩」以下と感じる。

 

どの人も学校に入れば、

「人の話は聴きましょう」と習うのだ。

または、

授業中に「寝るな」、

という最低限の良識を習うのである。

 

国会を観れば、

「居眠り」、

スマホいじり」

などをやっているのである。

 

これが「国会」という、

「国を動かす」「議論の場」でやっていて、

「政策」では「増税」を強いる。

「選挙」では「お願いします❗️」という、

二つの「お願い」しかしない。

 

だから、

議員椅子さえ座れば良い、

と、

口を揃え、国民に言われるのだ。

 

国会を開くために何億もかかり、

給料も1年で「何千億」と負担をして、

政党助成金」には、300億以上もかかり、

「国政選挙」には600億以上掛けている。

 

こんな状態を招いておいて、

国債」という「国の借金」1000兆を超え、

【国の予算の10年分】を「平成時代」だけで産み出している。

国民一人あたり700万の「借金」を「背負わされ」、

子どもの未来は在るのか❓

 

赤ちゃん、

「スクスク」大きくなれないではないか(怒)

 

若者には「未来」を託したくとも、

「眼を背けたくなる」のも当然の行動だ。

 

そして、

貴方がたを「教育」した「恩師」の顔に「泥」を塗り続けている。

 これは、

怒りを通り越してしまうのである。

 

前述をした「お金」を削れば、

借金「返済」の一助になると言い切りたい。

 

「国会制度」ができた頃には、

「名誉職」で給料など少なかったのだ。

 

今、国会議員の主な仕事は、

「新党づくり」が仕事になっていると言っても「過言」ではない。

国民に信頼され、

「チェック機能」と「政権交代可能な政党を創る」と言い続けて、

「創っては壊し」を何度もやり続ける始末だ。

「名前の架け替え」をすれば、

「国民の信頼」、「政権交代」可能

わけでも無い。

 

そんなコトも解らない「愚か者」集団なのかと、

バッサリと斬り捨てるコトにする。

 

与党にも言いたい。

この50年、政権を担ってきたのは事実なのだが、

ここ20〜30年は、

「野党よりマシ」。

「選択肢」が無いから。

ある意味「独裁政権」。

「力」の上にアグラをかき続けることができたけど、

 

言っても良い❓

 

大人は「子どもの手本」になるのだ。

これが「良識」だと想う。

 

今の現実は、

「大人は自分勝手」で良いと言っているのと変わらない。

 

それでも、

高校では「政治を学び」、

「お互いの意見」を「話し合い」、

それぞれの感性を磨いている。

 

そして、

「自分の意見」として「投票」をしているのです。

 

若者に「解りやすい政治」をと言うなら、

先ずは、

「襟を正し」、

「褌を締め直す」

のが、

先決なのだ。

 

国会議員のみなさんへ

自分が「議員の自覚」と「議員の資格」 があると思うならば、

体だけでは無く、

「中身」も大人になれ、

と言いたい。

 

なお、

「後述」になったが、

真面な「仕事」をしている人も居る、と言いたい。

 

最後に、

普段こんな想いを抱きつつも、

「政治」を身近に感じて居ても期待を持ち、

「未来の創造」を持つからこそ、

言葉にした事を伝えて、

今回の話を終えたいと想う。

 

※代筆者からのお断り

この投稿は、先天性脳性麻痺による肢体不自由状態と、

脳躍動状態と身体運動機能との不整合を抱えていることでの言語表記の不具合を、

本人の意思のもと、

合理的配慮で表記変換を施しています。

また、文章スタイルは、本人のありのまま状態を尊重し、

意思と感情を反映しつつ、若干の加工を施しています。

ご理解願います。

 

介護とは何か? 007 *不自由であること (2018.03.07)

*不自由であること

 

僕は、

自分の身体が「不自由と感じる」ことが在ります。

 

でもそれは、

身体が動かないということではありません。

 

自分に「こうしたい」という想いが在っても、

人に理解されなければできないこと

あるからです。

 

人は、

自分が自由で動けるなら、

できることが沢山有ります。

 

それが何なのかは、

「人それぞれ」です。

 

僕の場合、

何かやりたいこと

行きたいことに対して、

親に「御伺い」をたてなければいけなかったりします。

 

そういう時、

自分で動ける身体が在ったなら簡単だし、

と想います。

 

喧嘩した時、

逃げてしまいたいことがあります。

 

でも、

言われている時の「言葉の嵐」が過ぎるのを待っています。

 

もちろん、

言い返すことも在ります。

 

でも、

そうなると、

「だったら自分のことをやってみろ」

とか

「出来無いなら文句言うな」

となります。

 

簡単に言うと、

「下手に居て威張るな」

沢山言われてきました。

 

「親子」の上下関係で起こっている部分もあるのでしょう。

僕自身、

それは解る部分も在ります。

 

だけど、

「身体としてどうしようもないこと」を言われると、

心が潰されたり、

「生きた心地」は正直しません。

 

だって、

好きで出来無いわけでも無いのです。

 

「障害者」「健常者」を選べるなら、

僕も、

「健常者に生まれたかった」

染み染み感じます。

 

でもこの場合の「健常者」は、

「僕が出来無い身体のことを出来る人」として話しています。

 

僕も、

「オマエがこんな身体に産んだんだ。」

「出て行け。」

言ったりもしました。

 

どうして人は、

「出来無いこと」

「できなくなった事」

「そうなった事」

言うのだろうと想います。

 

そんなことを言われているほとんどが、

「苦しいこと」

にしかならないのです。

 

喧嘩の内側にあるのは、

僕は「こうしたい」とか「こんな風にしたい」と想う「素直な想い」があるのです。

 

「出来無いこと」は「出来無い」と思ってしまうのも辛いことだけど、

「出来無いこと」を「やってもらったり」「やってあげたり」することで、

「プラスへの転換」をして、

「自分の力でやりたいことが出来ること」をやったりしたいのです。

 

自分は、

「出来なくなること」が怖いより、

「出来無い身体」を抱えて、

「気持ち」が「理解」「共感」をしてもらえ無い方が、

「生きる術」を失くしてしまうと想って居ます。

 

人の心は、

繊細な部分が沢山在ると想います。

だからこそ、

ゆっくり確実に進みたいと想うのです。

 

出来無いことが増えた時、

人は少なからず落ち込むでしょう。

 

でもいつかそれを、

「受け入れたり」、

「受け容れられなくても」、

生きて生かねばなりません。

 

僕は、よく人から「幸せ」だと言われます。

 

でも「幸せ」に見えたにしても、

自分のこれからの生活、

つまり、

「親の居なくなった後」を考えると、

考えられてしまうと、

生きて生くことへの不安を毎日感じて、

「死んでしまいたい」と想うこともよくあります。

もちろん、

そんなことしたら、

生き還れないことも解って居ます。

 

「健常者」でも「死んでしまいたい」と考えるでしょう。

 

だからこそ、

「身体に拘る考え方」を「必要以上」にしたくはありません。

 

人から見て穏やかな川の流れに乗って生きて居ると想っていても、

「自分は激流を毎日必死に生きて居る」こともあります。

 

僕は「自分らしく」生きて「自信持って生きること」、

「死」より「生」を前向きに考えること、

考えられる環境を、

「今生きて居る皆んな」で、

自分に問いながら、

今を生きることが、

「明るい未来」の一歩になっていくと信じて生きて居ます。

 

人間は、

何をもって「幸せ」

何をもって「不幸」

何をもって「障害」

何をもって「健常」

なのか?

 

障害を持った人にも、

「自分は障害者」と思う人も、

「そう思わない人」も居るかもしれません。

 

だから、

いろんな考えがあることを認め合うこと、

「理解」できなくても、

「認識」をしていけたらと想います。

 

障害=不幸

では無くて、

障害=不便だけど生きて生ける。

想える環境創りをしたい。

そういう環境であって欲しい。

変わって行ったり、

変えて生きたい。

 

環境が社会の一部ならば、

環境が変わって行けば社会が変わるスタートになると想っている。

 

考えの持ち方、

理解の浸透で、

障害を感じずに生きることもできる。

 

そうなってくれれば良いと想うが、

それと同じくらいに、

「何故障害者なのか?」を考えることも必要なことかもしれない。

「障害者」であることは変わらない。

でも、

障害があることを理由に、

「生きかた」

「考えかたの自由」

は、

奪ってはいけない。

 

なぜなら、

「障害」を持ったことを責めること、

「産んだことを責めること」

が、

「本当の障害」だと、

今痛いほど感じるのです。

介護とは何か? 006 *気持ちのかたち? 想いのかたち? (2018.03.07)

*気持ちのかたち? 想いのかたち?

 

今日はこんなことを話してみたいと思います。

 

僕はいつも書くように、

「障害者」です。

 

介助を受けるにあたって、

または、

頼む立場として、

考えや気持ちが伝わらなければ気持ちが苦しい介助や介護になります。

 

そこで僕はいつも、

こういう考えを持って居ます。

 

人間一人一人考えも性格も違います。

だから、

100%「解ってあげる」、

理解する、理解してもらうことは無理な話です。

でも、

こう考えてみませんか?

 

人間が100個ピースのパズルでできていて、

100グラムであったとします。

 

それぞれのピースには、

「感情」「考え」「想い」など、

いろいろ書いてあります。

でも、

100個のピースそれぞれに重さが違うと考えてください。

 

もし、

そのうちの10個が70グラムを占めていたなら、

そこの部分を「自分の大切なところ」として、

「介護する人」「受ける人」、または、

「人として考える」上で、

「共有認識」として知ってもらい、

理解を深めていけたなら、と思うのです。

 

あえて70%と書きました。

でもこれが50%でも、60%でもかまわない、という人もいるかもしれません。

 

でも物事を進める時、

半分以上の理解、あるいはミカタが居た方が、

日々の生活がし易いな、

と僕自身は想って居ます。

そうすれば、

身体の充実も在りますが、

「心の安心」と「自分から湧き出る力」とか、

なにより、

「笑顔」で居られるのではといつも心で感じているのです。

 

ということはまだ、

「安心」とか「リラックス」は得られて居ないということなのです。

 

どうして解ってくれないんだろう?

どうして苦しいのか?

 

毎日考えて居ます。

 

「自分が解ってもらう側」

「相手が受け止める側」

完全に「分ける」つもりはありません。

 

これは、

「どんな人」

「どんな仕事」

「どんな立場の人」にも言えるのではないでしょうか?

 

人間には「多種多様」な人がいます。

それゆえに、

いろんな考え、気持ちがあることは、

心のどこかに置いて生きて生きたいと想うのです。

 

もちろん、

この考えは、

多くの考えや想いにすぎません。

 

ただ、

この思いが、

僕には大切であると言い続けることが大切で、

自分の考えとして伝えて生きたいと想います。

 

だって、

人の考えや想いに「蓋」や「邪魔」はすべきではないのだから…

🌟ちょっと、三呼吸🌟文章のできるまで(2018.03.04)

🌟文章のできるまで

 

僕が文章を描く時、

「タイトル」を書き留めて置いたり、

描きたいイメージがその時に浮かんだものを、

書きながら文章を創る。

それゆえに、

「タイトル」が在っても「文章」にならないものもある。

 

そのかわり、

日々の生活の中で、

描きたいことが出て来る。

「風の吹くまま飛んでる」のかもしれない。

 

僕は「作家」ではないけれど、

「描きたい」「言いたい」はたくさんあると思って居る。

でもけっして、

巧くは書けない。

「ありのまま」の自分の「想い」や「考え」を描いて生くことになる。

 

そしてこの文章が、

「誰か」の目に留まって、

「興味」「感心」を持ってもらえる人が、

一人でも居たのなら、

今の僕の「幸せ」なのです。

今描いて居る文章も、これから描く文章も、

「今」「明日」「未来」を考え、想いながら、

描き続けて生きたいと心から思うのです。

 

人目に触れて良い「文章」なのかは判らない。

 

でも一つ判っていることは、

自分独りでは無いということ。

 

今描いたものは、

20年モノの「想い」もあるし、

今日たった今「僕から産まれ出た」モノもある。

 

これから描くものに「気持ち」を籠めて描きたいと思って居る。

🌟ちょっと、フタ呼吸🌟体と時間:自由が欲しい(2018.03.04)

🌟体と時間:自由が欲しい

 

今日は「自由」を描いてみようと思う。

 

僕が「人を羨ましくなること」は、「思い立ったら出かけられること」だ。

 

例えば、

「健常者」は、「車」「自転車」「電車」「バイク」などで、

その日直ぐに出かけられるわけです。

例えば、

「今日買い物に行こう」とか「映画観よう」って、

一人または友人と出かけることでしょう。

 

僕も「デイサービス」、「スポーツ」、「友達と出かける」ことはできる。

 

ただそれは、

総て「予定を組む」ということで、

「ヘルパーさん」「タクシー」などを用意することになるのです。

そうなると、

僕にとっては「仕事」になってしまうのです。

ただ純粋に、

「遊び」「楽しみ」にはならないのです。

 

僕はこんな時友だちと、

「何処でもドア」が欲しいねって「真面目」や「笑い話」で話したりする。

そうすれば、

皆んなが思うところに思い通りに出かけられるね、って話している。

それこそ、

ドラえもんの生まれた22世紀の未来なら、

有り得るのかもしれない。

 

残念なことに、

僕や友だちは100年以上は生きて居ないことは、

現代においては確定の事実なのである。

よほど、

「長生きの薬」でも開発されれば、

別の話かもしれない。

でもそうなると、

自分の知っている人は生きて居ないのも寂しいかもしれない。

 

人間は、

「無い物ねだり」をする動物なのである。

でも、

この「自由」を、

「無い物ねだり」ですませるには「悔しさ」が湧いてくる。

 

ほかにもやっぱり、

人が羨ましいことはたくさんある。

 

でも、

それを全部言っても、

悔しいことだらけで、

身体ではなく、

心が生きていけなくなってしまうから、

なるべく思わない様にしている。

 

ちなみに、

僕が障害者であっても、

行動が自由に生けるなら、

何処でもドアで、

野球観戦や講演会などもしてみたいので、

全国や世界を飛び回って観たいものです。

 

でも僕が、

障害を持っていることは変わりないから、

誰かと行くことには変わりないけれど。

 

みんなと同じ「自由」が欲しいと思いながら、

15,000日以上を「障害者」として生きて居る。

🌟ちょっと、ヒト呼吸🌟興味をもつこと:政治(2018.03.01)

🌟興味を持つこと:政治

今回のおはなしは、「政治」についておはなししたいと思う。

 

政治って難しくて興味無いって言う人は少なく無いことを僕はよく知っている。

僕は、政治に関わることの多い環境に生まれたので、

自然とこの世界に入って行ったのです。

でも、

ここで一言言うなら、僕は、

興味を持ったということなのです。

 

子どものころ(9歳)だったと記憶がある。

 

テレビを見ながら宿題をしていた。

夕方4:30〜5:30には教育テレビで子ども向け番組しかやっていなかった。

さすがにそれ見て宿題をする気はしなかった。

そして、

1チャンネルの相撲やニュースを見ながらやった。

 

そこで、

日本の総理(偉い人)は、中曽根康弘と言う人だと知ったのです。

そこから、

興味の扉は開いたのです。

 

つまり、

僕が言いたいのは、

自分の興味あるところから入って良いということ。

 

予算に興味ある人、

外交に興味ある人、

防衛に興味ある人、

いろいろな扉はあると思います。

どこの扉からでも、

どんな興味でも、

良いのです。

その扉から観えるモノ、

それを観て、

時に何を思い、考えるか?が大切なのだと思います。

 

30年あまり政治を観てきた、感じてきた自分でも、

政治の総ては語れないし、観えません。

 

でも、

興味は失っていません。

もう、

ご飯を食べることがある意味「あたりまえ」の感覚と変わらないんだと思います。

その上でみなさんに一つ言わせてもらうなら、

自分の一票を使って欲しいのです。

 

解らないから行かない、

それも有りの意見かもしれないですね。

 

自分に関係の無い、興味無い、

染み染み真面な事も政治家はしていない。

だから、行かない。

自分には関係無い。

自分が行っても「世の中」変わらない。

抗議するために行かない。

 

50%の投票率で選挙するより、

60%、70%の人でいろいろな選挙で自分の一票という大切な権利を使って欲しいのです。

私が入れても変わらない。そう思うのもあるでしょう。

でも一人一票の権利は、18歳から持っているのです。

 

あなたの一票で何か変わる、変えられるはずなのです。

 

50%の人の決めるまちの未来、

あるいは国の未来より、

60%、70%、それ以上のみなさんの意志で、

あなたの住むまち、国の未来を一緒に考える政治家を選んで欲しいな、

と思います。

もし、

候補者を知らなかったとしても、

どんな決め方でも構わないのです。

だって、

最初からモノを知っている人、できる人って、

あんまり居ないでしょう。

少しずつ感じて、覚えていって構わないと思います。

「議員1年生」が居るように、

「投票1年生」でも良いじゃないかと思います。

 

だって僕達は、

小学1年生から学校で学び、

今この日本のいろいろな場所で生きて居るのだから。

今の積み重ねが未来なら、

日本の未来をみなさんと決めたいと、

僕は思います。

 

「日本の主役は、みなさん一人一人だと私は思います。」

 

介護とは何か? 005 *何をもって障害者なのか❓ (2018.02.28)

*何をもって障害者なのか❓

 

みなさんは日本にどれだけの障害者が居ると思いますか?

 

約630万人とも言われています。

実際にはもっと多いと思います。

これは、

障害者手帳を持っている人の数字」なのです。

 

認定されない人も少なからずいる事を伝えたい。

 

僕には、

何をもって障害とするのか、

の定義というか、線引きが分からない。

 

例えば、

障害が有るからオムツを使う。

吸引器が必要になる、

などと書けば皆さんに解り易いかもしれない。

 

例えば大きな意味で捉えれば、

目が悪くて眼鏡を掛けていても、障害に変わりないし、

耳が悪くなって補聴器を使っても、障害者と呼べなくもない。

 

人それぞれの考えもあるとは思うのはいうまでもないし、

これは、

僕の考えである。

 

別にこう書いたから、言ったとしても、障害者を増やそうという安易は無い。

 

けれど何をもって障害者なのかは、

いろいろ考えるようになった20数年経った今でも解らない。

20数年とは、

「障害」を考えてきた期間なのです。

このことについては、

また別の時にユックリ書きたいと思います。

 

障害者って、

「自分の考え」と「周りの共感と理解」があれば、

身体は変わらないけれど、

さきほど例えで書いた様に、

「オムツ」を使っても、

「吸引器」を使ってもである。

 

考え一つと言ったのは、

「オムツを使えば安心」とか「替えてあげれば良い」と考えれば理解されてるとして、

「使わなければいけない」と思ったりその事を理解されないと、

障害者になってしまう部分もあるのではないだろうか?

「障害者」への理解というより、

人に対するありのままの理解は、

全員に言える事だと思う。

 

障害を抱えた僕たちの中でも、

福祉職員の中にも、

考え方の理解や心の理解が薄い人が多いことが、

現状だと思う。

 

敢えて「現実」と言わないのは、

「現実」は変えられない。

でも、

「現状」は変えられると僕は思うのです。