障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

介護とは何か? 007 *不自由であること (2018.03.07)

*不自由であること

 

僕は、

自分の身体が「不自由と感じる」ことが在ります。

 

でもそれは、

身体が動かないということではありません。

 

自分に「こうしたい」という想いが在っても、

人に理解されなければできないこと

あるからです。

 

人は、

自分が自由で動けるなら、

できることが沢山有ります。

 

それが何なのかは、

「人それぞれ」です。

 

僕の場合、

何かやりたいこと

行きたいことに対して、

親に「御伺い」をたてなければいけなかったりします。

 

そういう時、

自分で動ける身体が在ったなら簡単だし、

と想います。

 

喧嘩した時、

逃げてしまいたいことがあります。

 

でも、

言われている時の「言葉の嵐」が過ぎるのを待っています。

 

もちろん、

言い返すことも在ります。

 

でも、

そうなると、

「だったら自分のことをやってみろ」

とか

「出来無いなら文句言うな」

となります。

 

簡単に言うと、

「下手に居て威張るな」

沢山言われてきました。

 

「親子」の上下関係で起こっている部分もあるのでしょう。

僕自身、

それは解る部分も在ります。

 

だけど、

「身体としてどうしようもないこと」を言われると、

心が潰されたり、

「生きた心地」は正直しません。

 

だって、

好きで出来無いわけでも無いのです。

 

「障害者」「健常者」を選べるなら、

僕も、

「健常者に生まれたかった」

染み染み感じます。

 

でもこの場合の「健常者」は、

「僕が出来無い身体のことを出来る人」として話しています。

 

僕も、

「オマエがこんな身体に産んだんだ。」

「出て行け。」

言ったりもしました。

 

どうして人は、

「出来無いこと」

「できなくなった事」

「そうなった事」

言うのだろうと想います。

 

そんなことを言われているほとんどが、

「苦しいこと」

にしかならないのです。

 

喧嘩の内側にあるのは、

僕は「こうしたい」とか「こんな風にしたい」と想う「素直な想い」があるのです。

 

「出来無いこと」は「出来無い」と思ってしまうのも辛いことだけど、

「出来無いこと」を「やってもらったり」「やってあげたり」することで、

「プラスへの転換」をして、

「自分の力でやりたいことが出来ること」をやったりしたいのです。

 

自分は、

「出来なくなること」が怖いより、

「出来無い身体」を抱えて、

「気持ち」が「理解」「共感」をしてもらえ無い方が、

「生きる術」を失くしてしまうと想って居ます。

 

人の心は、

繊細な部分が沢山在ると想います。

だからこそ、

ゆっくり確実に進みたいと想うのです。

 

出来無いことが増えた時、

人は少なからず落ち込むでしょう。

 

でもいつかそれを、

「受け入れたり」、

「受け容れられなくても」、

生きて生かねばなりません。

 

僕は、よく人から「幸せ」だと言われます。

 

でも「幸せ」に見えたにしても、

自分のこれからの生活、

つまり、

「親の居なくなった後」を考えると、

考えられてしまうと、

生きて生くことへの不安を毎日感じて、

「死んでしまいたい」と想うこともよくあります。

もちろん、

そんなことしたら、

生き還れないことも解って居ます。

 

「健常者」でも「死んでしまいたい」と考えるでしょう。

 

だからこそ、

「身体に拘る考え方」を「必要以上」にしたくはありません。

 

人から見て穏やかな川の流れに乗って生きて居ると想っていても、

「自分は激流を毎日必死に生きて居る」こともあります。

 

僕は「自分らしく」生きて「自信持って生きること」、

「死」より「生」を前向きに考えること、

考えられる環境を、

「今生きて居る皆んな」で、

自分に問いながら、

今を生きることが、

「明るい未来」の一歩になっていくと信じて生きて居ます。

 

人間は、

何をもって「幸せ」

何をもって「不幸」

何をもって「障害」

何をもって「健常」

なのか?

 

障害を持った人にも、

「自分は障害者」と思う人も、

「そう思わない人」も居るかもしれません。

 

だから、

いろんな考えがあることを認め合うこと、

「理解」できなくても、

「認識」をしていけたらと想います。

 

障害=不幸

では無くて、

障害=不便だけど生きて生ける。

想える環境創りをしたい。

そういう環境であって欲しい。

変わって行ったり、

変えて生きたい。

 

環境が社会の一部ならば、

環境が変わって行けば社会が変わるスタートになると想っている。

 

考えの持ち方、

理解の浸透で、

障害を感じずに生きることもできる。

 

そうなってくれれば良いと想うが、

それと同じくらいに、

「何故障害者なのか?」を考えることも必要なことかもしれない。

「障害者」であることは変わらない。

でも、

障害があることを理由に、

「生きかた」

「考えかたの自由」

は、

奪ってはいけない。

 

なぜなら、

「障害」を持ったことを責めること、

「産んだことを責めること」

が、

「本当の障害」だと、

今痛いほど感じるのです。