障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

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優先事柄 続編 ※職員の在るべき姿とは※ (2018.05.05)

※職員の在るべき姿とは

 

みなさん おはようございます。

 

先日こんな事があった。

 

デイサービスの午後の活動で、

植木市に出かけた。

利用者10名以上、職員4人という、

ある意味大集団だった。

 

僕は電動車椅子に乗っている。

運転もできる。

指示されることも伝わる。

 

でも最近よく、

「みんなの動くペース」について行けないのだ。

それは、

眠気という一つの症状が襲って来る。

しかも予告無く、突然に…

 

他にもいくつかあるけれど、

今は「眠気」に絞って話を続ける。

 

その眠気でみんなのペースについて行けなかったのです。

もっと自分の気持ちを出すなら、

自分一人「置いて行かれた」のです。

 

他の人は自分たちのことしか見ていなかったのだ。

ちゃんと全員ついて来ているかどうか観るのが、

「職員の仕事」なのだ。

それすらもしなかった‼️

 

しばらくみんなが落ち着いた時に、

迎えに来た。

 

僕の気持ちは、

放って置かれたと想った。

たとえそれが「数分」のことであっても、

寂しかった…

 

みんなは見えていたけどついて行けず、追いつくこともできなかった。

 

行動のスタートから、

心が別行動になってしまった。

「取り残された気持ち」で心が完全に覆われてしまった…

哀しくて、

堪んなかった。

 

僕は活動から帰る車の中で言った。

「みんなに置いて行かれた」と苦しい自分の気持ちを言葉にした。

 

そうしたら、

「置いていって無いよ。」「ちゃんと見たじゃん。」

 

ある程度自分で任せているから、任せている=できるを意味する。

 

確かにそれは、

僕も理解し認識している。

もしかしたら、

僕の様に理解できる人がこんな風に想うのも、言うのも、

「甘え」や「甘え過ぎ」と捉えられることが多いのだろう。

 

でも大切なのは、

「そういう状況」と「その気持ち」にさせてしまった、

という事なのだ。

 

これは「事実」である。

 

僕は常に「三配り」を考えて居る。

「気配り」「目配り」「心配り」なのです。

 

デイサービスに居る間の僕は、

「家族から預かっている存在だ」ということを解っているのだろうか❓

 

自分からこんな事を言うのも「嫌だ」と想う。

「貴方は何様なの?」と想う人も居るのは当然かもしれない。

それは言われなくても、普段の生活の中でも想う人も居るかもしれないし、

自分だって「そう想う事柄」が無いわけでもない。

 

でもみなさん、デイサービスで居る間は、

職員にも「責任」があるはずだし、

ある意味、

「御客様」なのです。

だからこそ、

三配り、「目配り」「気配り」「心配り」が必要なのだ。

 

前にも書いた様に、「何様」でも良い。

 

でも、ここで大切なのは、

そういう事が「有った」「起きた」「興した」事が問題なのです。

 

僕はさっきから言葉にしている「気配り」「目配り」「心配り」は、

自分も心掛けている。

 

職員さんたちは、

勤務時間は「仕事」をしていて、

これで生計を立てているのです。

 

「プロ」や「仕事の自覚」は、

何に於いても「主眼」に置かねばいけない。

 

ちなみに、

「プロ」という言葉や「エキスパート」などという言葉は、

「自分から」言うべきものでは無い。

人に「判断する」「判断されること」で意味が出て来る言葉なのだ‼️

 

じゃぁ

自分が思って良いこと、

言って良い言葉は、何か❓

それは、

「自覚」だと、

「もう一度」書き記す‼️

 

これはなにも、

人にだけ求めている、言っているわけでは無い。

 

自分にも問い掛けをして求められるモノだと「自覚」している。

 

福祉全般、

または、

自分の心に問いかけて観ることが、

みんなに「必要」だと想う。

 

そのことで、

「皆の安心」と「笑顔の基本」であると、

信じている。