障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

介護とは何か? 008 *何を以ってして…(2018.03.11)

*何を以ってして…

 

僕はたくさんの想いを描く中で、

ふと

想うことがある。

 

何を以って「障害」、

何を以って「健常」なのか❓

 

これは総て、

「比べるもの」がある以上、

考えとして浮かんだり、

思いが浮んで来るのだと想う。

 

僕は障害を持って産まれたのは「現実」です。

でもね、

障害を「受け入れて」、

自分も周りも「同じ考え」や、

その人の言葉、想うこと、「身体」を認識できたり、

その仲間がいたなら、

その人は「障害」は無いのではないんではないのかな❗️

なんて想うのです。

 

僕は「自由」にできているところがあっても、

「障害者」だと想う。

それはこれまで書いてきたとおり、

日常生活の「食事 」「着替え」「お風呂」「排泄」等ができ無いことの他に、

行動ができなくて、口動(こうどう)しかできないので、

言葉だけの説得力が持たせられ無い、持たせきれ無いことが口惜しいし、

自分にとって多くの関わりある人に、

少しでも同じ認識になれたならと想うし、

感じるうちは、

障害を抱えると想う。

 

身体の障害も、

「これがあたりまえ」と思えばある意味「前向き」で良いのかもしれない。

僕は、

「前向き」もあれば、

「後向き」もあるからです。

 

やっぱり、

生活の上での「食事」「着替え」「お風呂」「排泄」は、

自分でしたいと想うけれど、

いろんな「感情」「考え」「想い」「認識」の中で、

「無いものねだり」になって、

「考えのどうどう巡り」になってしまうのです。

この「どうどう巡り」が、

「本当の障害」になってしまうと自分が毎日感じていること…

 

自分が「障害」ではなく、

「不便」や「こんなものだよ」って「アッケラカン」として捉えていたなら、

「心が感じることも違ってきて」、

自分では気づかないスピードで動いているけど、

「いつのまにか違う景色」が見えていることもあるんだろうな。

 

やっぱり僕が障害者であることは一生変わらない。

だからこそ、

「自分の大切なところ」を認識や、

「知ろうとしてくれる人」、

「興味」を持ってくれる人を、

一人でも多く居てくれたらと想うし、

その興味は、

「僕の身体」であっても、「考え」であっても構わない。

 

もしかしたら、

自分が気づかない「着眼点」。

これを読んでくれている人の中に生まれているかもしれません。

 

今僕が描いていることは、

「正論」「理想論」だよって想うかもしれません。

 

僕は今、それでもかまわないと想っています。

 

なぜなら、

これが今の僕の「ありのまま」であるからです。

 

「現実」は変えられない。

でも「現状」は変えられると想い続け、

言い続け、

26年の春を迎えるこのごろです。

 

僕は今描きながら、

自分の心をさらけ出し、向き合い、

読んでくれるみなさんに「関心の種」を蒔けたなら、

あるいは、

渡せたらと想います。

 

もし、

いろいろな想いが魚なら、

「美味しい海鮮丼」でもできるかな…と想っています。