障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

介護とは何か? 009 *書くことよりも話すこと (2018.03.11)

*書くことよりも話すこと

 

僕は、

「書くこと」よりも、

「話すこと」のほうが得意かもしれません。

話すことのほうが「熱」が伝わり易いのです。

 

インターネットで文字になった時、

想っていることがどう伝わるのか?

伝えたいことが伝わるのか?

 

書くのもまとまらない、

話をすれば山手線の様にクルッと一周してまとまらない。

 

それでも、

「書いたり」「話したり」を続けることに変わりない。

もしこのことを止めてしまったなら、

僕は僕では無くなってしまうという「怖さ」がある。

 

生活していても、

自分の気持ちが伝わらずに、

「心の生きづらさ」を感じている。

 

僕はいちおう、

皆さんが聴き取れるであろう「言葉」は話せたりする。

人には、

「おまえ一人で三人分だ」と言われる。

確かにそうだと思うが、

昔は五人分話せたと想っている。

そう考えてみると、

自分も静かになったと思うけれど、

でも僕の周りは、良くも悪くも「認めない」と思う。

 

どうせ三人分なら、

「握り寿司」なら食べる自信がある‼️(笑)

 

正直35を過ぎてから、

「話しづらさ」を感じる。

これは「身体的」な意味で、

「話したいこと」が頭に有ったとしても、

「言葉にできなかったりする。」

後は、

「緊張」が入ればやっぱり話せない。

そういう時は、

「ゆっくり話したり」、

友だちに言葉で「あ行」から言葉で文字盤を頼んだりする。

 

それでも話したい。

 

また別の観点においては、

自分の普段話している言葉で話さないと「ちゃんと話せ」とか、

「甘え」に取られることもある。

 

確かに、

疲れてる時や、甘えられる人なら、

そういう時もある。

人間は「伸び代」も有るし、

「ゆったりする。させてあげる」ことも必要なのだとシミジミ想う。

 

話せるから「言える」、

「言ってくるのがあたりまえ」、

という決まりきった「定説」がある。

 

僕だって「話しづらい」 「頼みづらい」「言いづらい」もある。

でも三人分話せる自分には、

「そういう部分」がある。

 

人間いろんなところに合わせたり、ものを言うことも有る様に、

僕にだっていろいろな場面というか、

状況も有るのに、

僕は一部しか見てもらえない。

 

そんな時は、

「一人の人として」悲しくなる。

 

描くことは好きなだけで巧くも無い。

 

でも、

好きであることは、

なにをやるにおいても「必要」なことの一つかもしれない。

 

僕は「 嫌い」と想いながら、

モノができるほど器用な人では無い。

 

前に書いた、

何を以って「障害」とか「健常」とか言った時に、

いろんな「視点」「論点」「考え方」があるから、

「答えは一つでは無い」。

それを描くと言うのは難しい。

それでも「描く」のは、

小さいころから「好き」でいられたことが、

大きな理由なのです。

 

それに今は、

描きたいことが有り、湧いて来るのです。

 

何か一つ「文」や「イメージ」が湧いて、

一つのタイトルを付けて描き上げる。

 

僕はいつも、

「話しながら」「描きながら」考える。

 

どんなものができるか❓

どんな話になるのか❓

は、

ペンの力に任せたい。

「意志のある他力本願」だろう。

 

僕は自分の気持ちが続く限り、

「描く」も「話す」も止めない‼️