障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

介護とは何か❓ 012 *生きて生く怖さ (2018.03.27)

*生きて生く怖さ

 

今日も僕は、

レポート用紙に向かって居る。

 

今日のテーマは、「生きて生く怖さ」にした。

 

今僕の家庭においての「身体的生活」は、

お母さんに100%支えられて居る。

 

このお母さんが居なくなった時のことを、

最近よく想像するのです。

親が60代、自分が40代であれば、

日々その不安は頭の中にあって、

「拭いきれないもの」である。

 

人は、

障害を抱えて居なくても、

「生きて生くことの怖さ」は有るものだと、

僕の周りの人も言う。

 

そういった意味では、

自分だけでは無いと想うことも、

自分の心で感じられるときも在る。

 

ただ自分は、

親亡き後の「生活の形」を想像しなければならない時期に来て居る。

確かに今、

社会におけるサービスは、

自分が子どもの頃であった30年くらい前よりは、

「生き易い」社会に変わりつつあるので、

「生き易い」事態には変わりつつあるのも、

事実であるように想う。

 

ではなぜ「怖さ」を感じるのか❓

 

それは、

「金銭的不安」と、

「障害を抱えた人たちの生活の形」の「多様性の確立」ができ辛いことと、

その確立をしようにも、

サービスの「地域的格差」が在ることが、

大きな原因なのだと、

自分は想う。

 

そういうことに対しての不安で、

「気持が支配」されてしまって居るところは在る。

 

どう、

そこを変えて生くのか⁉️

課題だと想う。

 

僕の気持ちの中で、

「地域で生きて生くこと」、

それをテーマにして居る。

 

それはどうしてか⁉️

 

障害を抱えた人たちが「地域生活」をすることによって、

地域の認識や理解が深まって行くこと。

それに伴って、

他の人にも、

「私にもできる」と想ってもらえるんじゃないかと想って居る。

 

地域で生きて生くことで、

「施設」とは違うものが観えるところもあるように考えるのです。

 

かと言って、

「施設」で暮らしている「仲間たち」を否定はしない。

 

ただ言葉で言うほど「簡単」では無い。

 

不安が自分の気持ちの「支配」に変わりは無い。

 

ただその時期が来たならば、

いつかこの生活をして良かったと想える時が来ることを、

信じて生きて生きたいという、

気持は「小さな芽を出しつつ在る」。

 

僕は、

今の生活を維持しながら生きて生くことと、

今自分ができることを考えながら、

自分の気持ちにある小さな芽を育てて生きたいと、

想ってるのです。

 

そして、

僕の大好きな「ひまわり」は、

希望という名の太陽の力で、

太陽の先にあると信じて居る、

「自分の未来」に向かって生きたいと想う。

 

自分の想う「未来の完成形」は、

生きて生く形に悩まない、「その人らしい生活の確立」、

それが、

真の「共生社会」だと、

僕は自分の考えとして伝えて生きたい。

 

そしていつか、

今僕が描いていることが、

描かなくても良い、

障害を抱えた人が「心から棲み易い社会」となることを、

私は心から願うのです。

 

人は、

「思うだけ、考えるだけなら誰でもできる」という人も居る。

 

でも、

障害を抱えた僕は、

「想いが変化の始まり」だと信じて居る。

 

その「変化の始まり」のキッカケや、

こういう考えが、

社会に根っ子を張って育って生くように、

今できること一つ一つ、

確実にやって生きたいと考えて居る。

 

そして、そのことが、

障害を抱えて産まれて来た、

「hiroshiの役割」であって、

「hiroshiという人生を生きて生くこと」なのだと想う。

 

そして今、

僕に関わってくれて居る皆さんと、

これから人生で関わって生く皆さんに向けて、

御願いが一つあります。

 

私の信じる未来に向けて、

皆さんの御支援と、

hiroshiの考えを拡めて生く気持ちの「伝道者」として、

力を貸していただきたいと想って居ます。