障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

優先事柄 ※相模原事件※(2018.05.02)

※相模原事件※

2016年7月26日、悲しい事件が起きた。

 

場所は、神奈川県相模原市

 

津久井やまゆり園。

 

ここで、

元職員が19人の尊い命を奪い、

26,7人を傷つける事件が現実に起きた。

しかも、

話も抵抗もでき無い人から殺していったと言う供述で語られた。

話をでき無い人と書いたが、

これに関しては後述したいと思う。

 

犯人言わく、

障害を持つ子どもの将来を悲観したから殺った…

 

もちろん、

何があっても「人を殺す」ことはよく無い。

これは、

「最重要の良識」だと想う。

 

ただ、

親が子どもの将来を心配するのは、

子どもが「健常者」であっても「障害者」であっても変わらない。

 

でも、

自分の力で生きて生き易いのは、

間違いなく、

「健常者」だろうと想う。

 

残念な言い方、

または、

冷たい言い方になるかもしれないけれど、

子ども、妻、夫、親、兄弟の介護、介助をしているなかで、

「毎日の疲れ」、将来への不安を感じ、抱いてしまうなかで、

命を奪ってしまうということは少なくない。

1年1回もこのニュースを聞かないことは無い。

 

それほど、

「生を支える」ことは大変なのだ。

 

もしかしたら、

僕そのものが、

親、兄弟に手をかけられることもなくは無い。

もちろん、

そんなことをしたら、100%犯罪者になる。

 

でもそれが冷静であるなら、

そんなことはしないだろう。

 

でも、

それが悲観的な考えかたになってしまった時、

たとえ残忍であったにしても、

「心が追い込まれてしまった」ならば、

 

手をかけても不思議では無いと想う。

これは決して、

殺っていいなどという容認では無い。

 

実際、

僕の親も、

「あなたが居たから、この家に居た」と

よく言う。

 

最初は、

「恩着せがましい」と思ったけれど、

いろんなものを「耐えて忍び」ながら、

親や周りの力があった中で、

「生かされて居た」のかもしれない。

 

わたしも死んで居たのかもしれない。

 

事実、

わたしも自ら命を絶とうと思ったことは、

かなり有る。

でも今を生きて居る。

 

施設に居ても、

親たちが言葉にしてしまうのは、

子どもを愛するが故の「苦しみ」、

もあるのだ。

 

子どもである僕も、

親亡き後のことは、

毎日と言っていいくらいに不安として付き纏うのです。

 

こういう事件は有ってはならないことなのだけれど、

いつ起きても、

どこで有っても、

誰が起こしても、

オカシク無いのだと想う。

けっしてこれは、

対岸の火事」では無いと想う。

だからこそ、

恐怖やショックが有った。

みんな、

布団やベッドで寝ていれば、

無抵抗で殺られてしまうと思う。

 

さて、この話の冒頭にふれた、

「話をでき無いということ」について書き記そうと思います。

 

人の表現には、

「あいうえお」と言えるから話せるだけでは無い。

たとえば、

「文字盤」で話す。

「パソコンなど機械的な物」だったり、

聞きてが言葉を言って頷いてもらったり、

または、

泣く、笑うなどで話したり、

身体の一部、 「目」「手」「舌」などで合図をしたり、

または、

「笑顔」や「顔」で表現もしたりする。

「手話」や「口の読み取り」もある。

 

今僕が思いつく限りでもこれだけある。

これのほかにも有るはずです。

これらの方法は、

僕が学校や日々の生活、テレビなどで観たことがあるのです。

 

だからこそ、

「話せ無い」と決めつけた犯人の「浅はか」な言動に、

「強い怒り」を感じてしまう。

 

犯人には、

100回死刑になっても赦すことは、

僕にはでき無い。

人の未来を奪ったのだから。

 

ただ一つの救いは、

利用者さんの家族がやまゆり園を必要としている

ということだろう。

 

この動きに関しては、

神奈川県知事の黒岩祐治氏を筆頭に、

家族の思いを受けとめて動いていることは、

ニュースなどの報道のとおりです。

 

なお、

大切な家族を奪われ、傷つけられたみなさまの気持ちを想うと、

書き綴っている今でも、

涙がでる。

 

〈家族を亡くされたみなさまへ〉

亡くなられた家族、または親族、知り合いのみなさまと出会えたことが、

なによりの幸せだったと想います。

 

〈傷を負われたみなさまへ〉

みなさんの受けた「心の傷」は消えることは無いでしょう。

でも、

生きていかれるなかで、

少しは癒されて生くこともあることと想います。

これについては、

家族のみなさまも同様ではないでしょうか❗️

また、

そうであることを心から願って居ます。

 

〈やまゆり園のスタッフのかたがたへ〉

みなさまがたの、

日々の生活を支えてくださる「努力」や「気持ち」は、

他の施設を利用している私にも解ります。

みなさまがたのいつもの支えは、

利用者さんに届いていると強く想います。

これからも、

利用者さんと供に楽しいやまゆり園を続けていっていただければと想います。

 

〈福祉を志す、または、関わってくれているみなさまへ〉

人間には、

いつ、どのような事が起きてしまっても、

不思議ではありません。

でも、

「福祉は国民全員のもの」です。

これからこの気持ちを抱きながら、

みなさんと供に未来へ進みたいと考えて居ます。

そしてなにより、

建物のセキュリティはもちろんのこと、

私たちの「心のセキュリティ」も考えていかなければなりません。

福祉の世界においては、

未だ未だ必要とされ、多くの人の力が必要です。

そして悲しいことではありますが、

人間の死をもって社会に問題提起をされていることは事実です。

遺された私たちは、

「何をすべきか」❓

「どうあるべきか」❓

答えを見つけられなくとも、

考えて生かなければならないと想います。

 

また、

このブログを通してみなさんに話して生きます。

そして、

供に考えて生きたいと想います。

 

この世に「失って良い命」、

「居なくて良い人」は、

居ないのです。

 

みんなを認め合うことが、

「共生社会」の原点であると想います。

 

そして、

今後もまた、

この様な事が起きない方法を考えなければいけないでしょう‼️

 

そして最後に、

〈亡くなられたみなさんへ〉

みなさんは亡くなることが有ってはなりませんでした。

でも、

みなさんの命で考えなければならないコトが見つかりました。

みなさんの命が無駄にならない様に、

考え生きて生かなければと想います。

 

そして、

心より御冥福を申し上げます。

 

みなさんが、

天国では自由に話し、

身体が動いてくれていると想っています。

天国になってしまったかもしれませんが、

「自由な身体」で楽しんでくださいね。

 

(つづく)