障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

介護とは何か? 008 *何を以ってして…(2018.03.11)

*何を以ってして…

 

僕はたくさんの想いを描く中で、

ふと

想うことがある。

 

何を以って「障害」、

何を以って「健常」なのか❓

 

これは総て、

「比べるもの」がある以上、

考えとして浮かんだり、

思いが浮んで来るのだと想う。

 

僕は障害を持って産まれたのは「現実」です。

でもね、

障害を「受け入れて」、

自分も周りも「同じ考え」や、

その人の言葉、想うこと、「身体」を認識できたり、

その仲間がいたなら、

その人は「障害」は無いのではないんではないのかな❗️

なんて想うのです。

 

僕は「自由」にできているところがあっても、

「障害者」だと想う。

それはこれまで書いてきたとおり、

日常生活の「食事 」「着替え」「お風呂」「排泄」等ができ無いことの他に、

行動ができなくて、口動(こうどう)しかできないので、

言葉だけの説得力が持たせられ無い、持たせきれ無いことが口惜しいし、

自分にとって多くの関わりある人に、

少しでも同じ認識になれたならと想うし、

感じるうちは、

障害を抱えると想う。

 

身体の障害も、

「これがあたりまえ」と思えばある意味「前向き」で良いのかもしれない。

僕は、

「前向き」もあれば、

「後向き」もあるからです。

 

やっぱり、

生活の上での「食事」「着替え」「お風呂」「排泄」は、

自分でしたいと想うけれど、

いろんな「感情」「考え」「想い」「認識」の中で、

「無いものねだり」になって、

「考えのどうどう巡り」になってしまうのです。

この「どうどう巡り」が、

「本当の障害」になってしまうと自分が毎日感じていること…

 

自分が「障害」ではなく、

「不便」や「こんなものだよ」って「アッケラカン」として捉えていたなら、

「心が感じることも違ってきて」、

自分では気づかないスピードで動いているけど、

「いつのまにか違う景色」が見えていることもあるんだろうな。

 

やっぱり僕が障害者であることは一生変わらない。

だからこそ、

「自分の大切なところ」を認識や、

「知ろうとしてくれる人」、

「興味」を持ってくれる人を、

一人でも多く居てくれたらと想うし、

その興味は、

「僕の身体」であっても、「考え」であっても構わない。

 

もしかしたら、

自分が気づかない「着眼点」。

これを読んでくれている人の中に生まれているかもしれません。

 

今僕が描いていることは、

「正論」「理想論」だよって想うかもしれません。

 

僕は今、それでもかまわないと想っています。

 

なぜなら、

これが今の僕の「ありのまま」であるからです。

 

「現実」は変えられない。

でも「現状」は変えられると想い続け、

言い続け、

26年の春を迎えるこのごろです。

 

僕は今描きながら、

自分の心をさらけ出し、向き合い、

読んでくれるみなさんに「関心の種」を蒔けたなら、

あるいは、

渡せたらと想います。

 

もし、

いろいろな想いが魚なら、

「美味しい海鮮丼」でもできるかな…と想っています。

優先事柄 続編 ※職員の在るべき姿とは※ (2018.05.05)

※職員の在るべき姿とは

 

みなさん おはようございます。

 

先日こんな事があった。

 

デイサービスの午後の活動で、

植木市に出かけた。

利用者10名以上、職員4人という、

ある意味大集団だった。

 

僕は電動車椅子に乗っている。

運転もできる。

指示されることも伝わる。

 

でも最近よく、

「みんなの動くペース」について行けないのだ。

それは、

眠気という一つの症状が襲って来る。

しかも予告無く、突然に…

 

他にもいくつかあるけれど、

今は「眠気」に絞って話を続ける。

 

その眠気でみんなのペースについて行けなかったのです。

もっと自分の気持ちを出すなら、

自分一人「置いて行かれた」のです。

 

他の人は自分たちのことしか見ていなかったのだ。

ちゃんと全員ついて来ているかどうか観るのが、

「職員の仕事」なのだ。

それすらもしなかった‼️

 

しばらくみんなが落ち着いた時に、

迎えに来た。

 

僕の気持ちは、

放って置かれたと想った。

たとえそれが「数分」のことであっても、

寂しかった…

 

みんなは見えていたけどついて行けず、追いつくこともできなかった。

 

行動のスタートから、

心が別行動になってしまった。

「取り残された気持ち」で心が完全に覆われてしまった…

哀しくて、

堪んなかった。

 

僕は活動から帰る車の中で言った。

「みんなに置いて行かれた」と苦しい自分の気持ちを言葉にした。

 

そうしたら、

「置いていって無いよ。」「ちゃんと見たじゃん。」

 

ある程度自分で任せているから、任せている=できるを意味する。

 

確かにそれは、

僕も理解し認識している。

もしかしたら、

僕の様に理解できる人がこんな風に想うのも、言うのも、

「甘え」や「甘え過ぎ」と捉えられることが多いのだろう。

 

でも大切なのは、

「そういう状況」と「その気持ち」にさせてしまった、

という事なのだ。

 

これは「事実」である。

 

僕は常に「三配り」を考えて居る。

「気配り」「目配り」「心配り」なのです。

 

デイサービスに居る間の僕は、

「家族から預かっている存在だ」ということを解っているのだろうか❓

 

自分からこんな事を言うのも「嫌だ」と想う。

「貴方は何様なの?」と想う人も居るのは当然かもしれない。

それは言われなくても、普段の生活の中でも想う人も居るかもしれないし、

自分だって「そう想う事柄」が無いわけでもない。

 

でもみなさん、デイサービスで居る間は、

職員にも「責任」があるはずだし、

ある意味、

「御客様」なのです。

だからこそ、

三配り、「目配り」「気配り」「心配り」が必要なのだ。

 

前にも書いた様に、「何様」でも良い。

 

でも、ここで大切なのは、

そういう事が「有った」「起きた」「興した」事が問題なのです。

 

僕はさっきから言葉にしている「気配り」「目配り」「心配り」は、

自分も心掛けている。

 

職員さんたちは、

勤務時間は「仕事」をしていて、

これで生計を立てているのです。

 

「プロ」や「仕事の自覚」は、

何に於いても「主眼」に置かねばいけない。

 

ちなみに、

「プロ」という言葉や「エキスパート」などという言葉は、

「自分から」言うべきものでは無い。

人に「判断する」「判断されること」で意味が出て来る言葉なのだ‼️

 

じゃぁ

自分が思って良いこと、

言って良い言葉は、何か❓

それは、

「自覚」だと、

「もう一度」書き記す‼️

 

これはなにも、

人にだけ求めている、言っているわけでは無い。

 

自分にも問い掛けをして求められるモノだと「自覚」している。

 

福祉全般、

または、

自分の心に問いかけて観ることが、

みんなに「必要」だと想う。

 

そのことで、

「皆の安心」と「笑顔の基本」であると、

信じている。

優先事柄 ※相模原事件※(2018.05.02)

※相模原事件※

2016年7月26日、悲しい事件が起きた。

 

場所は、神奈川県相模原市

 

津久井やまゆり園。

 

ここで、

元職員が19人の尊い命を奪い、

26,7人を傷つける事件が現実に起きた。

しかも、

話も抵抗もでき無い人から殺していったと言う供述で語られた。

話をでき無い人と書いたが、

これに関しては後述したいと思う。

 

犯人言わく、

障害を持つ子どもの将来を悲観したから殺った…

 

もちろん、

何があっても「人を殺す」ことはよく無い。

これは、

「最重要の良識」だと想う。

 

ただ、

親が子どもの将来を心配するのは、

子どもが「健常者」であっても「障害者」であっても変わらない。

 

でも、

自分の力で生きて生き易いのは、

間違いなく、

「健常者」だろうと想う。

 

残念な言い方、

または、

冷たい言い方になるかもしれないけれど、

子ども、妻、夫、親、兄弟の介護、介助をしているなかで、

「毎日の疲れ」、将来への不安を感じ、抱いてしまうなかで、

命を奪ってしまうということは少なくない。

1年1回もこのニュースを聞かないことは無い。

 

それほど、

「生を支える」ことは大変なのだ。

 

もしかしたら、

僕そのものが、

親、兄弟に手をかけられることもなくは無い。

もちろん、

そんなことをしたら、100%犯罪者になる。

 

でもそれが冷静であるなら、

そんなことはしないだろう。

 

でも、

それが悲観的な考えかたになってしまった時、

たとえ残忍であったにしても、

「心が追い込まれてしまった」ならば、

 

手をかけても不思議では無いと想う。

これは決して、

殺っていいなどという容認では無い。

 

実際、

僕の親も、

「あなたが居たから、この家に居た」と

よく言う。

 

最初は、

「恩着せがましい」と思ったけれど、

いろんなものを「耐えて忍び」ながら、

親や周りの力があった中で、

「生かされて居た」のかもしれない。

 

わたしも死んで居たのかもしれない。

 

事実、

わたしも自ら命を絶とうと思ったことは、

かなり有る。

でも今を生きて居る。

 

施設に居ても、

親たちが言葉にしてしまうのは、

子どもを愛するが故の「苦しみ」、

もあるのだ。

 

子どもである僕も、

親亡き後のことは、

毎日と言っていいくらいに不安として付き纏うのです。

 

こういう事件は有ってはならないことなのだけれど、

いつ起きても、

どこで有っても、

誰が起こしても、

オカシク無いのだと想う。

けっしてこれは、

対岸の火事」では無いと想う。

だからこそ、

恐怖やショックが有った。

みんな、

布団やベッドで寝ていれば、

無抵抗で殺られてしまうと思う。

 

さて、この話の冒頭にふれた、

「話をでき無いということ」について書き記そうと思います。

 

人の表現には、

「あいうえお」と言えるから話せるだけでは無い。

たとえば、

「文字盤」で話す。

「パソコンなど機械的な物」だったり、

聞きてが言葉を言って頷いてもらったり、

または、

泣く、笑うなどで話したり、

身体の一部、 「目」「手」「舌」などで合図をしたり、

または、

「笑顔」や「顔」で表現もしたりする。

「手話」や「口の読み取り」もある。

 

今僕が思いつく限りでもこれだけある。

これのほかにも有るはずです。

これらの方法は、

僕が学校や日々の生活、テレビなどで観たことがあるのです。

 

だからこそ、

「話せ無い」と決めつけた犯人の「浅はか」な言動に、

「強い怒り」を感じてしまう。

 

犯人には、

100回死刑になっても赦すことは、

僕にはでき無い。

人の未来を奪ったのだから。

 

ただ一つの救いは、

利用者さんの家族がやまゆり園を必要としている

ということだろう。

 

この動きに関しては、

神奈川県知事の黒岩祐治氏を筆頭に、

家族の思いを受けとめて動いていることは、

ニュースなどの報道のとおりです。

 

なお、

大切な家族を奪われ、傷つけられたみなさまの気持ちを想うと、

書き綴っている今でも、

涙がでる。

 

〈家族を亡くされたみなさまへ〉

亡くなられた家族、または親族、知り合いのみなさまと出会えたことが、

なによりの幸せだったと想います。

 

〈傷を負われたみなさまへ〉

みなさんの受けた「心の傷」は消えることは無いでしょう。

でも、

生きていかれるなかで、

少しは癒されて生くこともあることと想います。

これについては、

家族のみなさまも同様ではないでしょうか❗️

また、

そうであることを心から願って居ます。

 

〈やまゆり園のスタッフのかたがたへ〉

みなさまがたの、

日々の生活を支えてくださる「努力」や「気持ち」は、

他の施設を利用している私にも解ります。

みなさまがたのいつもの支えは、

利用者さんに届いていると強く想います。

これからも、

利用者さんと供に楽しいやまゆり園を続けていっていただければと想います。

 

〈福祉を志す、または、関わってくれているみなさまへ〉

人間には、

いつ、どのような事が起きてしまっても、

不思議ではありません。

でも、

「福祉は国民全員のもの」です。

これからこの気持ちを抱きながら、

みなさんと供に未来へ進みたいと考えて居ます。

そしてなにより、

建物のセキュリティはもちろんのこと、

私たちの「心のセキュリティ」も考えていかなければなりません。

福祉の世界においては、

未だ未だ必要とされ、多くの人の力が必要です。

そして悲しいことではありますが、

人間の死をもって社会に問題提起をされていることは事実です。

遺された私たちは、

「何をすべきか」❓

「どうあるべきか」❓

答えを見つけられなくとも、

考えて生かなければならないと想います。

 

また、

このブログを通してみなさんに話して生きます。

そして、

供に考えて生きたいと想います。

 

この世に「失って良い命」、

「居なくて良い人」は、

居ないのです。

 

みんなを認め合うことが、

「共生社会」の原点であると想います。

 

そして、

今後もまた、

この様な事が起きない方法を考えなければいけないでしょう‼️

 

そして最後に、

〈亡くなられたみなさんへ〉

みなさんは亡くなることが有ってはなりませんでした。

でも、

みなさんの命で考えなければならないコトが見つかりました。

みなさんの命が無駄にならない様に、

考え生きて生かなければと想います。

 

そして、

心より御冥福を申し上げます。

 

みなさんが、

天国では自由に話し、

身体が動いてくれていると想っています。

天国になってしまったかもしれませんが、

「自由な身体」で楽しんでくださいね。

 

(つづく)

✳️コメントを受けて✳️ ちょっと、ヒト呼吸のつづき(2018.04.29)

✳️ちょっと、ヒト呼吸のつづきー若者の政治離れ

 

わたしの6本目お話にコメントをいただいたので、

もう少し深めた「私見」を書いていきたいと思います。

 

若者の投票離れは、

「解らない」、

「誰がやっても変わらない」、

という二つの言葉に大きく分かれる。

これは、

最も「的確な指摘」であって、

わたしもそう思うところもある。

 

ここで、

一つの数字を描こうと想う。

 

10代  20%

20代  30%

30代  40%

40代  50%

50代〜70代  60%

 

これは、

各年代の「大まかな」投票率です。

簡単に言うと、

「若者」は低いのである。

30.40代、

いわゆる「現役」や「社会の中心」と言って良い世代でも、

50%台には行かない。

むしろ、

「高度経済成長」を担って来たベテラン世代は、

「投票」という「意見表明」をしているのです。

 

地方の選挙では50%割れ当たり前。

20%、30%台が普通のことになって、

もはや、

「驚き」は無く、

「やっぱりな」と思う。

 

政治が身近なhiroshiでさえ想うのだ。

 

国会に目を移せば、

「審議拒否」。

強行採決」の横行。

「批判合戦」。

まるで、

「子どもの喧嘩」以下と感じる。

 

どの人も学校に入れば、

「人の話は聴きましょう」と習うのだ。

または、

授業中に「寝るな」、

という最低限の良識を習うのである。

 

国会を観れば、

「居眠り」、

スマホいじり」

などをやっているのである。

 

これが「国会」という、

「国を動かす」「議論の場」でやっていて、

「政策」では「増税」を強いる。

「選挙」では「お願いします❗️」という、

二つの「お願い」しかしない。

 

だから、

議員椅子さえ座れば良い、

と、

口を揃え、国民に言われるのだ。

 

国会を開くために何億もかかり、

給料も1年で「何千億」と負担をして、

政党助成金」には、300億以上もかかり、

「国政選挙」には600億以上掛けている。

 

こんな状態を招いておいて、

国債」という「国の借金」1000兆を超え、

【国の予算の10年分】を「平成時代」だけで産み出している。

国民一人あたり700万の「借金」を「背負わされ」、

子どもの未来は在るのか❓

 

赤ちゃん、

「スクスク」大きくなれないではないか(怒)

 

若者には「未来」を託したくとも、

「眼を背けたくなる」のも当然の行動だ。

 

そして、

貴方がたを「教育」した「恩師」の顔に「泥」を塗り続けている。

 これは、

怒りを通り越してしまうのである。

 

前述をした「お金」を削れば、

借金「返済」の一助になると言い切りたい。

 

「国会制度」ができた頃には、

「名誉職」で給料など少なかったのだ。

 

今、国会議員の主な仕事は、

「新党づくり」が仕事になっていると言っても「過言」ではない。

国民に信頼され、

「チェック機能」と「政権交代可能な政党を創る」と言い続けて、

「創っては壊し」を何度もやり続ける始末だ。

「名前の架け替え」をすれば、

「国民の信頼」、「政権交代」可能

わけでも無い。

 

そんなコトも解らない「愚か者」集団なのかと、

バッサリと斬り捨てるコトにする。

 

与党にも言いたい。

この50年、政権を担ってきたのは事実なのだが、

ここ20〜30年は、

「野党よりマシ」。

「選択肢」が無いから。

ある意味「独裁政権」。

「力」の上にアグラをかき続けることができたけど、

 

言っても良い❓

 

大人は「子どもの手本」になるのだ。

これが「良識」だと想う。

 

今の現実は、

「大人は自分勝手」で良いと言っているのと変わらない。

 

それでも、

高校では「政治を学び」、

「お互いの意見」を「話し合い」、

それぞれの感性を磨いている。

 

そして、

「自分の意見」として「投票」をしているのです。

 

若者に「解りやすい政治」をと言うなら、

先ずは、

「襟を正し」、

「褌を締め直す」

のが、

先決なのだ。

 

国会議員のみなさんへ

自分が「議員の自覚」と「議員の資格」 があると思うならば、

体だけでは無く、

「中身」も大人になれ、

と言いたい。

 

なお、

「後述」になったが、

真面な「仕事」をしている人も居る、と言いたい。

 

最後に、

普段こんな想いを抱きつつも、

「政治」を身近に感じて居ても期待を持ち、

「未来の創造」を持つからこそ、

言葉にした事を伝えて、

今回の話を終えたいと想う。

 

※代筆者からのお断り

この投稿は、先天性脳性麻痺による肢体不自由状態と、

脳躍動状態と身体運動機能との不整合を抱えていることでの言語表記の不具合を、

本人の意思のもと、

合理的配慮で表記変換を施しています。

また、文章スタイルは、本人のありのまま状態を尊重し、

意思と感情を反映しつつ、若干の加工を施しています。

ご理解願います。

 

介護とは何か? 007 *不自由であること (2018.03.07)

*不自由であること

 

僕は、

自分の身体が「不自由と感じる」ことが在ります。

 

でもそれは、

身体が動かないということではありません。

 

自分に「こうしたい」という想いが在っても、

人に理解されなければできないこと

あるからです。

 

人は、

自分が自由で動けるなら、

できることが沢山有ります。

 

それが何なのかは、

「人それぞれ」です。

 

僕の場合、

何かやりたいこと

行きたいことに対して、

親に「御伺い」をたてなければいけなかったりします。

 

そういう時、

自分で動ける身体が在ったなら簡単だし、

と想います。

 

喧嘩した時、

逃げてしまいたいことがあります。

 

でも、

言われている時の「言葉の嵐」が過ぎるのを待っています。

 

もちろん、

言い返すことも在ります。

 

でも、

そうなると、

「だったら自分のことをやってみろ」

とか

「出来無いなら文句言うな」

となります。

 

簡単に言うと、

「下手に居て威張るな」

沢山言われてきました。

 

「親子」の上下関係で起こっている部分もあるのでしょう。

僕自身、

それは解る部分も在ります。

 

だけど、

「身体としてどうしようもないこと」を言われると、

心が潰されたり、

「生きた心地」は正直しません。

 

だって、

好きで出来無いわけでも無いのです。

 

「障害者」「健常者」を選べるなら、

僕も、

「健常者に生まれたかった」

染み染み感じます。

 

でもこの場合の「健常者」は、

「僕が出来無い身体のことを出来る人」として話しています。

 

僕も、

「オマエがこんな身体に産んだんだ。」

「出て行け。」

言ったりもしました。

 

どうして人は、

「出来無いこと」

「できなくなった事」

「そうなった事」

言うのだろうと想います。

 

そんなことを言われているほとんどが、

「苦しいこと」

にしかならないのです。

 

喧嘩の内側にあるのは、

僕は「こうしたい」とか「こんな風にしたい」と想う「素直な想い」があるのです。

 

「出来無いこと」は「出来無い」と思ってしまうのも辛いことだけど、

「出来無いこと」を「やってもらったり」「やってあげたり」することで、

「プラスへの転換」をして、

「自分の力でやりたいことが出来ること」をやったりしたいのです。

 

自分は、

「出来なくなること」が怖いより、

「出来無い身体」を抱えて、

「気持ち」が「理解」「共感」をしてもらえ無い方が、

「生きる術」を失くしてしまうと想って居ます。

 

人の心は、

繊細な部分が沢山在ると想います。

だからこそ、

ゆっくり確実に進みたいと想うのです。

 

出来無いことが増えた時、

人は少なからず落ち込むでしょう。

 

でもいつかそれを、

「受け入れたり」、

「受け容れられなくても」、

生きて生かねばなりません。

 

僕は、よく人から「幸せ」だと言われます。

 

でも「幸せ」に見えたにしても、

自分のこれからの生活、

つまり、

「親の居なくなった後」を考えると、

考えられてしまうと、

生きて生くことへの不安を毎日感じて、

「死んでしまいたい」と想うこともよくあります。

もちろん、

そんなことしたら、

生き還れないことも解って居ます。

 

「健常者」でも「死んでしまいたい」と考えるでしょう。

 

だからこそ、

「身体に拘る考え方」を「必要以上」にしたくはありません。

 

人から見て穏やかな川の流れに乗って生きて居ると想っていても、

「自分は激流を毎日必死に生きて居る」こともあります。

 

僕は「自分らしく」生きて「自信持って生きること」、

「死」より「生」を前向きに考えること、

考えられる環境を、

「今生きて居る皆んな」で、

自分に問いながら、

今を生きることが、

「明るい未来」の一歩になっていくと信じて生きて居ます。

 

人間は、

何をもって「幸せ」

何をもって「不幸」

何をもって「障害」

何をもって「健常」

なのか?

 

障害を持った人にも、

「自分は障害者」と思う人も、

「そう思わない人」も居るかもしれません。

 

だから、

いろんな考えがあることを認め合うこと、

「理解」できなくても、

「認識」をしていけたらと想います。

 

障害=不幸

では無くて、

障害=不便だけど生きて生ける。

想える環境創りをしたい。

そういう環境であって欲しい。

変わって行ったり、

変えて生きたい。

 

環境が社会の一部ならば、

環境が変わって行けば社会が変わるスタートになると想っている。

 

考えの持ち方、

理解の浸透で、

障害を感じずに生きることもできる。

 

そうなってくれれば良いと想うが、

それと同じくらいに、

「何故障害者なのか?」を考えることも必要なことかもしれない。

「障害者」であることは変わらない。

でも、

障害があることを理由に、

「生きかた」

「考えかたの自由」

は、

奪ってはいけない。

 

なぜなら、

「障害」を持ったことを責めること、

「産んだことを責めること」

が、

「本当の障害」だと、

今痛いほど感じるのです。

介護とは何か? 006 *気持ちのかたち? 想いのかたち? (2018.03.07)

*気持ちのかたち? 想いのかたち?

 

今日はこんなことを話してみたいと思います。

 

僕はいつも書くように、

「障害者」です。

 

介助を受けるにあたって、

または、

頼む立場として、

考えや気持ちが伝わらなければ気持ちが苦しい介助や介護になります。

 

そこで僕はいつも、

こういう考えを持って居ます。

 

人間一人一人考えも性格も違います。

だから、

100%「解ってあげる」、

理解する、理解してもらうことは無理な話です。

でも、

こう考えてみませんか?

 

人間が100個ピースのパズルでできていて、

100グラムであったとします。

 

それぞれのピースには、

「感情」「考え」「想い」など、

いろいろ書いてあります。

でも、

100個のピースそれぞれに重さが違うと考えてください。

 

もし、

そのうちの10個が70グラムを占めていたなら、

そこの部分を「自分の大切なところ」として、

「介護する人」「受ける人」、または、

「人として考える」上で、

「共有認識」として知ってもらい、

理解を深めていけたなら、と思うのです。

 

あえて70%と書きました。

でもこれが50%でも、60%でもかまわない、という人もいるかもしれません。

 

でも物事を進める時、

半分以上の理解、あるいはミカタが居た方が、

日々の生活がし易いな、

と僕自身は想って居ます。

そうすれば、

身体の充実も在りますが、

「心の安心」と「自分から湧き出る力」とか、

なにより、

「笑顔」で居られるのではといつも心で感じているのです。

 

ということはまだ、

「安心」とか「リラックス」は得られて居ないということなのです。

 

どうして解ってくれないんだろう?

どうして苦しいのか?

 

毎日考えて居ます。

 

「自分が解ってもらう側」

「相手が受け止める側」

完全に「分ける」つもりはありません。

 

これは、

「どんな人」

「どんな仕事」

「どんな立場の人」にも言えるのではないでしょうか?

 

人間には「多種多様」な人がいます。

それゆえに、

いろんな考え、気持ちがあることは、

心のどこかに置いて生きて生きたいと想うのです。

 

もちろん、

この考えは、

多くの考えや想いにすぎません。

 

ただ、

この思いが、

僕には大切であると言い続けることが大切で、

自分の考えとして伝えて生きたいと想います。

 

だって、

人の考えや想いに「蓋」や「邪魔」はすべきではないのだから…

🌟ちょっと、三呼吸🌟文章のできるまで(2018.03.04)

🌟文章のできるまで

 

僕が文章を描く時、

「タイトル」を書き留めて置いたり、

描きたいイメージがその時に浮かんだものを、

書きながら文章を創る。

それゆえに、

「タイトル」が在っても「文章」にならないものもある。

 

そのかわり、

日々の生活の中で、

描きたいことが出て来る。

「風の吹くまま飛んでる」のかもしれない。

 

僕は「作家」ではないけれど、

「描きたい」「言いたい」はたくさんあると思って居る。

でもけっして、

巧くは書けない。

「ありのまま」の自分の「想い」や「考え」を描いて生くことになる。

 

そしてこの文章が、

「誰か」の目に留まって、

「興味」「感心」を持ってもらえる人が、

一人でも居たのなら、

今の僕の「幸せ」なのです。

今描いて居る文章も、これから描く文章も、

「今」「明日」「未来」を考え、想いながら、

描き続けて生きたいと心から思うのです。

 

人目に触れて良い「文章」なのかは判らない。

 

でも一つ判っていることは、

自分独りでは無いということ。

 

今描いたものは、

20年モノの「想い」もあるし、

今日たった今「僕から産まれ出た」モノもある。

 

これから描くものに「気持ち」を籠めて描きたいと思って居る。