障害を抱えて生きて居るから言いたいhiroshiのことば

この身体で産まれて来た湧き上がってくる意味を思いつくままに伝えて生く

🗝介助識 その2 🗝 hiroshiの身体 その2 (2018.04.21)

🗝hirishiの身体 その2 🗝

 

ぼくの身体は、

何をするにも、

緊張がある。

 

できることをやっていてもである。

 

できること(食事、着替え、上着の脱ぎ着など)、

移動(床の上を這うこと)、話すことにも緊張はついてくる。

 

定食に付いてくるサラダの様に、

サラダは美味しいけれど、

緊張は迷惑なモノでしかない。

 

このブログの記事も、

パソコンで自力で描いたなら、

レポート用紙3〜4枚で、3〜4時間、

または、

2〜3日に分けて描くことになるのが現実だと想う。

 

でも、

左手でペンは持って、

一応書けるので、

レポート用紙なら1時間弱で3〜4枚は書いたりできる。

これはぼくには、

速いことだと想って居る。

 

だから、

時間がある時は2〜3タイトル、

レポート用紙10枚ていどは、

2〜3時間で書いたりできる。

 

今ぼくが描いてる記事は、

2〜3日後に、

手紙として、

たまに届く牛乳の様に届いていることになる。

 

だから、

座敷童子さんの祠(ほこら)には、

手紙の茶封筒は、

山になっていると想像できる。

 

でも、

座敷童子さんは忙しいので、

投稿ペースはお任せです。

 

自分で投稿したなら、

描きたいことの四分の一くらいだと想う。

 

食事、トイレ、着替え、移動、お風呂は、

一人で総て出来無い。

 

でも、

レポート用紙に書き記すこと、

封筒に入れることはできる。

 

これは、

できることとして確立できている。

 

でも、

切手を貼り、

ポストに入れることは、

人に頼む。

 

自分の身体でできること、

でき無いことの境界線が解らない。

できるというのも、

出来無いと決めるのも、

人の見方や感じ方によっても、

変わってくる。

 

だから、

今できること、

できると解ることをやっていることになる。

 

さて本題に戻ることにする。

 

緊張は、

薬である程度コントロールはできる。

 

ただ、

薬は悪いこともしてくれる。

 

自分でできることをやるための力も奪ってしまう。

 

あちらが立てば、こちらが立たず、なのです。

 

でも、

この身体で生きて、付き合っていくしかない。

 

どうせ付き合うなら、

人の方が良いなと想う。(苦笑)

 

出来無いコトもカタチを変えればできるになる。

 

二足歩行ができないなら、

車椅子で歩けば良いのだ。

 

前にも描いたけれど、

モノを使わなければいけないのでは無くて、

使えばできると考えられれば良いことなので、

そこには、

自分の考え、

ある意味の勇気と周りの理解と認識に依って、

変わる。

 

だから、

ユックリ考えたり、

変わっていけるのなら、

変わっていけば良いと想う。

 

ただ考え方を変えろ、

変われ、

解れ、

など、

人の心を矯正や拘束なんかは、

意味が無いと想う。

 

だから、

今のぼくは、

出来ないことが増えてきている。

そのことを、

出来なくなった、

やらなくなった、

と言われたりしてきた。

人から観れば、

現実を言っているのかもしれない。

 

ただ心においては、

マイナス効果が強くなってしまわないだろうか❓

 

だからぼくが今、

自分として考えて居ること。

それは、

出来無いことの中にも、

工夫や人の考え、理解、認識などが融合したなら、

できることも産まれると想う。

 

だからぼくは、

諦めているわけでは無いことを、

書き記すことにする。

 

この記事を描くと決めた最初の内容とは、

少し違ってきてしまったと想うけれど、

また描きたいと想った時に、

新しいモノを描きたいと想う。

 

今日は、

これでペンを休ませようと想う。